なぜ「ソルディーノ無しに」と指示したのか?
ところで、第1楽章冒頭に「senza sordino センツァ・ソルディーノ」という指示が楽語であるイタリア語で書かれています。これをそのまま訳すと、「弱音器をつけないで」ということになり、現代では、ピアノの「音を小さくする左ペダルを踏まないで」ということになります。しかし、これはありえない解釈で、冒頭からゆっくりと、静かに、それこそ、後世の人間が「月光のように」感じたフレーズがずっと続くわけですから、むしろ弱音器が欲しいわけです。なぜ、「ソルディーノ無しに」と指示をしたのか?
・・・正解は当時のピアノにありました。ピアノは、ハンマーで金属製の弦をたたいて音を出す楽器ですが、そのままだと音がずっと鳴り続けてしまうので、鍵盤を上げれば、鍵盤を下げて音を出したときに連動して弦から離れて上昇していたダンパーという機構が上から降りてきます。そして、弦の振動を止めるのです。現代のピアノは、頑丈な鋼鉄の弦を鋳鉄のこれまた頑丈なフレームに張っていますから、ダンパーがなければ、ハンマーでたたかれた弦は、2~30秒はずっと鳴り続けます。ところが、ベートーヴェンのこの時代のピアノは、まだ金属製のフレームがなく、弦も細かったので、ハンマーでたたいても大して音が保持できなかったのです。
第1楽章をなるべく、静かに、音が交じり合って響きあってきわめて幻想的に聴こえてほしいと思ったベートーヴェンは、「ダンパーを上げて」という指示で、「senza sordino」と書いたのです。これは、現代のピアノに直せば、「ダンパーを上げる機構である右のペダルを踏みっぱなしにして」と解釈できます。
残念ながら、現代のピアノは、ベートーヴェン時代からかなり改良されていますので、右のペダルを踏みっぱなしだと、音が残りすぎて、大きくなってしまったり、濁りすぎて聴くに堪えない音楽になってしまいます。そのため、現代のピアニストは、現代ではsordinoと呼ばれている左の弱音ペダルを踏みながら、現代ではダンパーペダル又はレガートペダルと呼ばれている右のペダルをなるべく多く踏むが、音が濁ってきたら適宜踏みかえて、演奏することがほとんどになっています。
同じピアノといっても、18世紀後半から19世紀初頭のものと、現代ではまったく別種の楽器といってもよい、常に技術革新とともに歩んできたピアノならではの「時代によっての解釈の違い」が、この曲にはあるのです。
ということで、謎多き冒頭の「センツァ・ソルディーノ」の指示の問題は、解決しているのですが、作曲の動機や、彼のこの曲に込めた思い・・は、いまだに謎の部分も多いのです。楽譜に記された音だけが手がかりですが、その音が、かえって謎を増幅している・・・そんな雰囲気を持つミステリアスな名曲だからこそ、「月光」のタイトルが似合ってしまうのかもしれません。
本田聖嗣