14歳の少年が作ったほぼ処女作が大ヒット
モーツァルト13歳の時、ついに父とともに「音楽の本場」イタリアに旅立ちます。もちろん、この旅においてもヴォルフガングという才能の宣伝・売り込みが父レオポルトの目的ですから、大旅行の時と同じく、地元やウィーンの知り合いの貴族などから推薦状・紹介状をもらい、伝手を頼って宮廷や教会を渡り歩く旅でした。旅の間も、旅費をいくらかでも稼がねばならないので、演奏会を開き、また依頼があれば、作曲もしつつの旅でした。
当時イタリアは現在のようなイタリア人による国民国家ではなく、教皇庁や、ヴェネツィアのような独立した共和国、フィレンツェのような小領主国家、スペインやオーストリアのハプスブルク系の領主を持つ小国などに細かく分かれており、ウィーンの宮廷の紹介状があれば、国によっては有利に事が運ぶかも・・という目論見もあったのでした。
オーストリア領だったミラノの総督から、モーツァルトはオペラの作曲の依頼を受け、そのころイタリアの音楽を学んでめきめきと力をつけたモーツアルトは、ありったけの力を振り絞って、この「ポントの王ミトリダーテ」を3か月で完成させます。
とはいっても、まだわずか14歳の少年のほぼ処女作です。熟練の作曲家の作品に比べたらまだ不備な点もあったことは想像に難くありません。事実、上演にあたって、歌手などから、いくつもの修正の注文があったといいますが、これは、当時は現在と違って、作曲家より歌手のほうが威張っていて、作曲家をこき使う、というイメージがあったのと、オーストリア領と言いながらそこはイタリア、「なぜドイツ語を話すザルツブルクという田舎からきた、それも少年の作曲した作品を演奏せねばならんのだ!」という地元音楽界の反感にもさらされたのが原因のようです。
長じてからは作曲の楽譜がいつも清書のようにきれいで、推敲のあとがほとんど見られない・・つまり、頭の中で完璧に仕上げてから楽譜を書くモーツァルトにしては、このオペラに関してだけは、たくさんの修正稿が存在しています。
少年と父にとっては厳しい試練となりました。イタリア滞在も結局長くなり、モーツアルトはドイツ語環境を懐かしむなど、少々ホームシックにもかかっていたようです。
しかし、初演された結果、このオペラは大変な評判となり、20回以上も再演されることになります。歌手たちも、そのアリアの魅力に気付かざるを得ず、何より聴衆もそれに反応して、初演時には異例のアンコールが何回もかかった、とレオポルトは得意げに故郷への手紙につづっています。
まだわずか十代半ばのモーツァルトは、この時すでに「イタリア語」と「オペラ」という音楽先進国の財産を自分のものにしていたことがうかがえます。オペラは器楽と違って、言葉への深い理解がなければ、良いメロディーは書けないからです。
現在では、その後のモーツァルトの大傑作オペラの陰に隠れて上演されることはめったにない「ポントの王ミトリダーテ」ですが、ニ長調の軽快な序曲や歌手たちのアリアは、この天才作曲家の少年時代のみずみずしい感性を伝えてくれます。モーツアルト・オペラの原点がここにはあります。
本田聖嗣