タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
URCという言葉を聞いて思い当る人がどのくらいいるだろう。少なくもかなりの音楽ファンであるか、70年代当時に青春を送った世代であることは間違いない。
正式名称は「アングラ・レコード・クラブ」。69年2月に発足したレコードの会員制自主販売組織である。頭文字をとってURCとなった。アングラ、つまりアンダーグラウンド。今風に言えば「サブカル」。それでいて70年代以降の音楽の流れに強い影響を与えることになった。これも今風に言えば、「インディーズ」のはしりであり原型というべきレコード会社だった。
商業ベースに縛られない音楽
70年代前半の音楽が、改めて注目されている。その一つの例が、今年の7月からスタートしたURCのアルバムのアナログレコードとカセットテープでの復刻発売がある。
第一回発売となったのが70年に出たはっぴいえんどの一枚目のアルバム「はっぴいえんど」と71年の2枚目のアルバム「風街ろまん」。アナログ盤とカセットを合わせてすでに約4000枚を出荷しているという。新作アルバムですら1万枚を超えればチャートの上位にランキングされる時代だ。しかも、2000年代に入ってすでに二度にわたってボックスセットが出ていることを思えば、驚異的な数字と言わざるを得ない。
はっぴいえんどは、大瀧詠一(G・V)、細野晴臣(B・V)、鈴木茂(G・V)、松本隆(D)の四人組。当時"フォークの神様"と呼ばれた岡林信康のバックバンドとして知られるようになった。活動期間が70年から72年までの3年間という短命にも関わらず、新しい聞き手が増え続けているのは、それまでの日本のバンドにはなかった関係性や創造性、そして、作品の質の高さ故だ。
一枚目のアルバム「はっぴいえんど」を最初に耳にした時の「何だこれは」という驚き。一つ一つの楽器の聞こえ方が違う。4人の音が醸し出す空気感は、それまでの日本の音楽では聴いたことのないものだった。更に、日常的な言葉と現代詩的な比喩を織り交ぜた歌詞はまぎれもない「日本語」だった。彼らが「日本語のロックの元祖」と呼ばれる所以である。
URCが発足したのは69年2月。趣旨は「商業ベースに縛られない音楽の制作と配布」である。
第一回の発売は、シングルがミューテーション・ファクトリーの「イムジン河」、ベトナムのシンガー&ソングライター、トリン・コーン・ソンの「坊や大きくならないで」。アルバムは高田渡と五つの赤い風船がそれぞれ片面という変則的アルバムだった。シングルのディレクターが北山修、アルバムのディレクターは高石知也と加藤和彦である。
言うまでもなく、北山修と加藤和彦は67年に「帰って来たヨッパライ」で彗星のごとく現れて一年間限定という異例のプロ活動の末に解散してしまったザ・フォーククルセダーズの二人だ。高石友也は、68年に「受験生ブルース」をヒットさせ、フォークソングを茶の間に広めたフォークシンガーのパイオニアである。URCは、彼らが所属していた高石友也音楽事務所が母体となっていた。