「家族の哲学」という新展開では埋め切れない「専門家による熟議」の欠落
このように『観光客の哲学』になってはじめて加えられたものには、どこか新展開を期待させるものがある。しかしながら、同時に評者は「専門家による熟議」の欠落が気になって仕方がないのである。
ネットに触発された大衆行動がいまひとつ芳しい成果を生んでいない訳は、アイデンティティの不足による動員の持続力の弱さもさることながら、実のところ具体的な改革の叩き台となる案を提示すべき「専門家による熟議」を欠いていることのほうが大きいのではないか。
「アラブの春」が政権の打倒ののち迷走し悲劇を生んだのは、政権を倒したあと政治・社会・経済を機能させる仕組みが用意されていなかったことが最大の原因ではないのか。国内での街頭行動がいまのところ持続的な成果を生んでいないのも、変革後に世の中の仕組みをどうするのか、具体的なブループリントが存在しない、少なくとも存在しないようにみえていることが主因ではないのか。「偶然の子どもたち」を引き受ける「不能の父」が人間の新しい可能性を拓いているようにみえるとしても、その父たちの利害が相反し互いに争っていることこそが現実社会を悩ます問題なのであり、必要なのはその利害を調停するプリンシプルと社会の仕組みなのではないのか。『一般意思2.0』で指摘されているとおり、「ツッコミ」は「政治文書」の作成には向かないのである。
『一般意思2.0』と『観光客の哲学』の構想を模式的に対比したのが下記である。
『一般意思2.0』
「専門家による熟議」×「ツッコミ」= 一般意思2.0による国家・社会
『観光客の哲学』
「欠落」×(「観光客」powered by 「家族」)= 帝国後のグローバル/ローカル社会
「専門家による熟議」の項が欠落のままでは、『観光客の哲学』の解たるべき、「帝国後のグローバル/ローカル社会」は無秩序のままである。
評者としては、当代一の物書きのひとりである著者に、「家族の哲学」の開拓にとどまらず、いまいちど「専門家による熟議」についての展開を期待したいと思っているのである。彼の書いたものが、評者の世代の残し得る最良の遺産のひとつとなるのは間違いなく、同時代人として後世によきものを残したいと願うからである。もっとも、期待は応えられず、きたる続編では、無秩序を生きる「偶然の子どもたち」と「不能の父」の姿が活写されているのを目にすることになるのかもしれない。それはそれで読んでみたいとは思うけれども。
※評者は『機械技術、生命科学の進歩で際立つ「人間性」の脆弱さ』(2016年6月)で、ジョナサン・グラバー(『未来世界の倫理』)による、ドリームマシーン(映画「マトリックス」のような幻の経験を与えるシステム)で満足させられない経験として残るのが、人格的交流と科学的研究であるとの説を論じている。評者にはこのふたつは頼りないものにみえる。人間は、幻の家族との生活や、幻の科学実験を通じた幻のパラメーターの発見に熱中することに終始してしまうのではないか。この「人間性」の脆弱性の認識のもと人文系の知識人がどう振る舞うのか、東氏の著作はそのひとつの振る舞い方を実践しようとしているようにみえる。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion