新たに加えられた「偶然のこどもたち」
消された(?)ものがある一方で、『観光客の哲学』に至って、新たに加えられたものがある。
「子どもとは不気味なもののことである。新生児の顔は実際に不気味である。子どもは、自分にとってもっとも親密でありながら、拡散し、増殖し、いつのまにか見知らぬ場所にたどりついてぼくたちの人生を内部から切り崩しにかかってくる、そのような存在である。...ぼくたちは、必然にたどりつく実存になるだけでなく、偶然に晒されつぎの世代を生みだす親にもならなければ、けっして生をまっとうすることができない。...子として死ぬだけではなく、親としても生きろ。...むしろここでの親は必ずしも生物学的な親を意味しない。...親であるとは誤配を起こすということだからである。そして偶然の子どもたちに囲まれるということだからである」(『観光客の哲学』(p299-300))
『観光客の哲学』は、第一部の「観光客の哲学」につづく第二部を「家族の哲学」と題している。家族が持ち出されているのは、個人でも国家でも階級でもない、第四のアイデンティティとしての家族に期待がかけられているからである。アイデンティティになぜこだわるのか。著者は、アイデンティティとして使える実質がないと、抵抗は「お祭り」化した短期的な動員しか生み出すことができないからだという。
国内外を問わず、ネットを媒体として生まれた大衆行動がみられる。なかには持続性を持たなかったものが少なくないことに鑑みると、アイデンティティという着眼点には「なるほど」と思わせるところがないわけではない。
そしてはっきり言えば、評者は「偶然の子どもたち」という着想にはすこし興奮さえ感じている。「個人」についてはいうまでもなく、「国家」にしても「階級」にしても、エゴを「国家」や「階級」に拡張し、エゴの思いを「国家」「階級」に託するという面があるのであり、その限りでは、エゴの世界を出るものではなかったと思う。しかし、ここで「偶然の子どもたち」を引き受ける「不能の父」に至ってはじめて、エゴの息苦しい閉域から踏み出したアイデンティティの新しいあり方を見出すように思うのである。