消された(?)「専門家による熟議」
『観光客の哲学』を読み進めるなかで、評者の目からみて、いつ論じられるかと期待して頁をめくりながらも、ついに取り上げられることなく終わった論題がある。その論題とは、観光客によって偶然に導かれるはずの「専門家による熟議」に相当する「なにか」についてである。
『一般意思2.0』では、この「専門家による熟議」にポジティブな役割が与えられていた。このポジティブな位置づけが、ネットワーク時代の新しい民主主義のあり方を提言する同著の議論の実効性、すなわち「これは使えるかもしれない」と感じた評者のわくわく感を支えていたのである。
「筆者は集合知によって条文や政策が作れるとは考えていない。集合知は情報の取集や誤りの修正には力を発揮するが、ゼロからの創造には向かないからである(わかりやすく言えば、それが事典製作や事実報道には向いているが、長編小説や政治文書の製作には向かない)。したがって、集合知はあくまでも熟議に対する抑制力としてのみ用いるべきだと考えている。ひらたく言えば『ツッコミ』にのみ使うべきだと考えている」(『一般意思2.0』p192)
『観光客の哲学』においても、その「なにか」がまったく存在しないわけではない。その「なにか」とは、もちろん帝国の体制のどこかにあるもののことである。ただ、『観光客の哲学』では、『一般意思2.0』におけるような、帝国の体制のどこかにあるそのものに関するポジティブな展開がみられない。いわば「ツッコミ」についての記述に終始しているのである。これでは「使えるかもしれない」という、手に汗握る感触が生まれてこない。
この欠落はなにを意味しているのだろうか。単に紙面の制約から、ポジティブに展開しなかっただけのことなのかもしれない。いずれ著者によりその「なにか」についてポジティブに語られるのを目にする日がくるのを待てばよいのかもしれない。ただ、実のところ、その課題が格段に困難なものであり、著者をもってしても、軽々に扱うことのできなかったものであった可能性もある。一国(あるいは同一言語)のメディア環境のなかでの「専門家による熟議」に比べると、帝国における「専門家による熟議」に相当する「なにか」をとらえることは、むつかしいことである。我が国における「専門家による熟議」の場としては、国会であったあり、討論番組であったり、ネット中継された「事業仕分け」であったり、具体的な場を想像することができる。他方、帝国における熟議の場とはどのようなものだろう。G20サミットのようなもの、あるいは種々の言語で書かれた雑多なSNSが作り上げるとある構造であろうか。それは充分に育っていないか、少なくとも一般市民の間にはまだ姿をあらわしていないのかもしれないし、いやそれとも、「大文字の他者」の衰退するなか将来においても存在しないものなのかもしれない。
ニクラス・ルーマンの言葉を使えば、はじめに多様で浮動的な民意を「縮減」する熟議の場があり、その場を偶然へと導く「ツッコミ」があるのである。しかしながら、『観光客の哲学』では、「縮減」の手順を経ないまま、「ツッコミ」だけが展開されていく。