生身を感じさせるアルバム
どの曲にも彼自身がにじみ出ている。「大河の一滴」は、学生時代を思ってのことだろうし、「君への手紙」は、今はこの夜を去ってしまった身近な人にあてたものだろう。「愛のささくれ」は、不埒な欲望に駆られていた頃の自分で「サイテーのワル」は、ネット社会への愚痴のようだ。「百万本の赤い薔薇」が、誰にあてられたものかは、アルバムについているブックレットに明かされている。シングルにもなった「ヨシ子さん」の型破りさは変わることない奔放な遊び心そのものだ。
どれもつぶやきや本音の話し言葉のような曲たちの中には「歌詞から書いた」という曲もある。英語の出てこない歌詞。日本語の美しさを感じるというのもこのアルバムならではだ。ジャズやブルース、洋楽的でありながら和風。「簪」というタイトルは"かんざし"という振り仮名がなければ読めなかった。
等身大、という言葉は、身の丈、というサイズだけを言うのではないのだと思う。温度感。その人の体温が感じられるというのも一つの要素ではないだろうか。
アルバム「がらくた」は、そういう意味でもこれまでのアルバムにはない生身を感じさせる。サザンオールスターズの「葡萄」は、バンドの総力を挙げて作り上げたという高いボルテージに溢れていた。「がらくた」はそうではない。同じ桑田メロデイーであってもどこかさりげない。それこそ身近な距離感と温度感が備わっている。アルバムの最後を飾る「あなたの夢を見ています」や「春まだ遠く」がその代表だろう。時の流れを慈しむようなぬくもりは、年齢なればこそだ。
アルバムの初回盤には、彼が全曲について書いたブックレットがついている。曲解説というより、日々の身辺雑記を綴った気ままなエッセイ。一曲目「過ぎ去りし日々(ゴーイング・ダウン)」の中には、こんな一節があった。
「だけど、「ウタ」というのは良いよ。 いつの時代にも行けるし、誰にでもなれて、めっちゃイイ女を抱いて棄てて逃げて嘆いて、、(中略)」 「でもそれが、今のアタシのウタでありイノチのアカシなんだ。」
アルバムにはこんなキャッチコピーがついている。
「この男、どスケベにつき!ソロ30年目の衝動」
ソロアルバムだからこそ見せる素顔がここにある。
(タケ)