放置するにはあまりにも惜しい曲
実は、「弦楽三重奏曲 第1番」は、未完成の曲なのです。ただ一つの楽章が書かれただけで、2楽章は最初の部分のスケッチ段階にとどまり、ついに、シューベルトは続きを書いてこの曲を完成させることはありませんでした。
同じ変ロ長調で書かれた第2番は、全4楽章を持つ立派な曲に仕上がっていますが、第1番は、何らかの理由で、事実上の第1楽章のみ、で放棄されたのです。
したがって、現在演奏できるのは、すべて演奏しても8分程度の「単一楽章」なのですが、未完成だからといって放置するにはあまりにも惜しい、デリケートかつメロディアス、そして、自然な音楽というシューベルトの魅力がつまった曲となっています。各弦楽器の扱いも、当時20歳前と若いのに、熟練した筆致で描かれていて、すでにシューベルトが室内楽の分野に精通していたことがうかがえます。
有名な「未完成」交響曲をはじめとして、シューベルトには未完成作品が他の作曲家に比べても、数多くあります。それらは、「伝統的な古典派の音楽スタイルに当てはめると楽章が足りない」などの理由で、途中放棄=未完成とされるのですが、次々と音楽が湧き出てきたシューベルトにとって、興味が次の曲に行ってしまうのは自然なことだったのかもしれません。
この曲が書かれた1816年は、彼にとって苦痛でしかなかった教師の仕事をやめて、本格的に作曲に専念しようとした変革の年で、大規模な交響曲なども複数手掛けていることから、室内楽でも小さな編成である弦楽三重奏の曲も、最初の楽章を書き上げたところで興味を失ってしまったのかもしれません。
しかし、後世のわれわれは、残された単一の楽章から、この先シューベルトが書き続けていたら、全体としてどんな曲ができたであろうか、想像してしまうのです。形式を気にすることが多いクラシック音楽ですが、シューベルトのような、「未完成であるが魅力的な作品が多い作曲家」の作品を聴いていると、そういった固定観念に縛られず、これはこれでよいではないか・・・楽想の赴くままに楽しもうではないか・・・そんな風に音楽が語っているように感じられます。
本田聖嗣