そこにあるのが悪しき「パノプティコン」であることを諒解する
織田氏によると、日本には全世界の五分の一近い35万床の精神科病床があり(2001年と古い統計であるが、その後も病床数はあまり減っていない)、患者あたりの平均在院日数も諸外国に比べて顕著に長い。そして、こうした長期入院が広くおこなわれている原因は、1)病床の9割を占める民間病院が病床を無理に埋めようとすること、2)患者の保護義務を負う家族が患者を引き受けようとしないこと、3)社会に受け皿が不足していることであるという。
評者は過去の書評で、英国の哲学者ベンサムのパノプティコンを例に引いて、困窮者への支援に際し、個人をターゲットにしたミクロの介入(きめ細かい支援)の重要性が高まっていると指摘したことがある(「パノプティコン(全展望監視システム)で生きることは、本当にまずいことなのか」(16年9月)、「『直接民主主義』とパノプティコン」(16年11月))。そのなかで強調したことは、困窮者を対象として視るばかりではなく、社会から監視者自身が視られることで監視者の規律と公正を維持することの必要性であった。
両著の報告する日本の精神医療の現状は、社会による監視を欠いたパノプティコンが生み出す暗い側面を余すところなくあらわしている。診断に第三者が口を挟むことに医師は抵抗するものだが、精神疾患は病態に客観性が伴わないぶん、医師の裁量は一段と拡大しやすい。拍車をかけるのが金(カネ)の問題である。日本の精神病床の9割が民間病床であり、民間病院はなんとしてでも病床を埋めようとするものである。ベンサムのパノプティコン型の救貧施設、全国慈善会社は民営を想定し、費用を収容者の勤労から賄うものとされていた。公営であればよい、とは評者は思わないが、人身の拘束を伴う精神医療を民間が担う以上、そこにどう公の規律を課すかという問題には答えられねばならない。事態をさらにむつかしくするのが、その民間施設が政治的な声をもちはじめることである。病院は地域社会において有力な勢力であるし、集合的に行動することで、全国的にも監視者を視るべき行政を牽制することができる。
こうした精神医療の構造を念頭におきつつ、佐藤氏や織田氏の報告を読むならば(その報告が良心的な精神科医の存在によってはじめて成り立っていることは意に留めておく必要があるが)、我が国の精神病院のなかに、社会による監視なき悪しきパノプティコンがある、そうした批判にひとつの真理があることは認めざるをえない。