去年から世界の首脳を決める大きな選挙が欧米では続きました。アメリカのトランプ大統領誕生という結果は大きな驚きを世界に与えましたが、今年の主にヨーロッパの人たちの政権選択は、どのようになるか興味深いところです。特に、欧州はシリアなどからの移民問題で揺れているだけに、極右的政治勢力が力を伸ばしている・・と報道されています。
アメリカの大統領選挙と、私にとっては第2の祖国であるフランスの大統領選挙を見ていて、気が付くことがありました。それは、既存の政治勢力が力を失い、急進的な主張をする人が票を伸ばした、ということではありません。2つの大統領選とも、決戦に臨んだ候補が、男性と女性だった、ということです。
フランスでは、2007年のサルコジ政権誕生の時の決選投票の相手が、社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル氏でしたから、「男女決戦」は初めてではないのですが、アメリカとフランスの直近の大統領決戦に女性が、結果的に敗れたとしても、かなり有力な候補としてコマを進めた、というのは21世紀的、新しい現象なのではないか、と思います。
8人の子供を女手一つで育てるために
世界的に見ても、女性の政治進出だけでなく社会進出に熱心なヨーロッパですが、クラシック音楽における「ロマン派」の時代、19世紀は、比較にならないぐらい男性優位の社会でした。クラシック音楽史にほとんど女性の作曲家が登場しないのは、才能のある人がいなかったわけではなく、才能があっても女性の名前では発表がはばかられたので男性名で又は他人の名で発表された・・という説が大げさでないぐらいの社会状況があったからなのです。
今日の1曲は、先週登場したロベルト・シューマンの妻、ピアニストとしても有名だったクララ・シューマンの「ピアノ協奏曲 イ短調」です。
まず、クララは、間違いなく作曲家としても有能でした。有能だったからこそ、ロベルトの才能を自らの目と耳で正しく価値判断することができたわけで、父の反対を押し切って、ロベルトに嫁いだのは、彼女の音楽家としての未来の夫の評価が高かったからということもいえるでしょう。
そして、クララは、夫となったロベルトが精神を病み、自殺未遂を起こし、そのあと入院して命を落とした1856年以降、作曲を一切していません。それは、ロベルトとの間に生まれた8人の子供を女手一つで育てるためには、お金が必要だったからであり、時間のかかる作曲より、収入がすぐ得られる演奏家としての活動を優先したからです。彼女は再びピアニストとして、大活躍をしたのです。
シューマンが46歳で亡くなった時、9歳年下のクララはまだ30代半ばでした。76歳の生涯を全うしたクララにとって、作曲家は、「人生の前半よりさらに短い期間」の活動でしかなかったのです。
しかし、そんな短い中でも、彼女はたくさんの作品を残し、ロベルトの庇護もあって、「他の男性名義で出版されていしまう」ということもなかったので、現代では、少しずつ演奏機会も増え、再評価されるようになってきました。
結婚以前にあった「人生における共同作業」
クララが書いたほとんど唯一といってよい、管弦楽がらみの曲、それが、「ピアノ協奏曲 イ短調 Op.7」です。1833年、なんとまだ彼女はわずか14歳の時に書かれた作品です。当初は、この時代にはやった「オーケストラ付きピアノ曲」として単一楽章のものを構想していたようですが、それを最終楽章に置き、前に二つの楽章を加えて、結果的には全三楽章を持つ、堂々たる「協奏曲」となりました。
ただ、さすがに、14歳のクララがいかに才能に溢れていても、オーケストラ・パートは苦労したらしく、全面的に、ロベルトに任せています。彼らは、まだ結婚以前に、「人生における共同作業」をこの曲で行っていたのです。
そして、この協奏曲の出だしの調である「イ短調」は、実はロベルトの考えに、基づいていました。ピアノ協奏曲はイ短調で書き始められなければならぬ、と常々、彼は言っていたのです。そういうロベルト・シューマン自身が自らのイ短調のピアノ協奏曲、現代でもよく演奏される人気曲ですが・・・・を完成させるのは、ずっと後の1845年になってからでした。
夫ロベルトの作品の陰に隠れてあまり演奏機会の多くない、クララのピアノ協奏曲ですが、小さいころからピアニストとして活躍し、作曲の才能にも恵まれた女性の、未来の夫との共同作業によって生み出されたこの曲は、みずみずしい感動を与えてくれます。
全楽章通しての初演は、1835年、未来の夫婦共通の友人、メンデルスゾーンの指揮、そしてもちろんクララ自身のピアノによってライプツィヒで行われました。
本田聖嗣