■『再考・医療費適正化―実証分析と理念に基づく政策案』(印南一路編著、有斐閣)
前回の書評(「年金論議で羅針盤がひとつほしいなら手に取る書」)では年金を取り上げたが、社会保障改革の本丸は、年金よりもむしろ医療介護であるというのが、公共政策をかじったことのある人間の共通認識だと思う。年金の場合には、マクロ経済スライドの導入により、経済の身の丈にあわせて自動的に財源と給付をバランスさせる仕組みがまがりなりにも入っている一方、医療介護は経済規模に比して、今後大幅に伸びてくることが見込まれている。
医療介護、特に今回取り上げた『再考・医療費適正化』(2016年)が論じている医療費がどうして増えるのか、高齢化が原因であるというのが一般の理解であろう。ただ、実のところ、高齢化では説明できないその他の要因がかなり大きいことが知られるようになってきている。
医療費抑制のための魔法の杖はない
本書では、都道府県別の計量的な比較分析を通じて、医療費を増加させる原因を突き止めようとしている。本書が導く結論は、高齢化は増加の主因ではなく、医療費増加の最大の要因は医師数だったというものである。あわせて、病床数もある程度の影響力を持つ一方、平均在院日数の短縮化は(通念とは逆に)むしろ医療費の増加要因だという。他方、どの要因もさほど強いものとは言えず、(ここが大事なのだが)医療費抑制のための魔法の杖はないと述べている。
著者の認めているところだが、本書の分析は、地域ごとの医療費の違いに基づく分析であるから、昨今話題の高額薬剤の登場のような医療技術の高度化など地域普遍的な要因による、医療費の増がどの程度効いているのかは、よくわからない。ただ、医療費の抑制が政策課題の一丁目一番地に挙げられている今日、本書の分析は大きな反響を呼んでいるようである。河野龍太郎氏が『週刊東洋経済』の書評で取り上げ、つづいて日本経済新聞の経済教室欄に印南氏による本書の概説が連載されるなど、広く世の中の関心を集めつつあるようにみえる。
理念に基づく医療制度改革の提唱
その上で評者は、本書の真価は、ここまで述べてきた計量分析にとどまるものではなく、むしろ本書が医療制度改革の理念の提示にまで踏み込んでいることにあることを指摘しておきたい。
計量分析から、印南氏らが医療費適正化に魔法の杖はないという結論を導いていることは先に紹介した。その到達点から、筆者は医療をひとくくりにするのではなく、理念に基づいて医療を分類し、その分類毎に公的な支援の度合いを変えることを提案している。この提案の根底には、医療といっても、そのための費用は、社会保険料や税という形で他人の自由を制限するものとして徴収するほかない以上、医療の提供にも本源的な制約があるという認識がある。
具体的には、筆者は、自己決定を尊重するという自律の原理を根っこに据えつつ、是が非でも守りたい「救命医療」と、社会全体の資源制約のもとで取捨選択をおこなうほかない「自立医療」に分類する。「救命医療」にはいわゆる救急医療にとどまらず、癌などの「緊急性はないが致命的な疾患」が含まれる。「自立医療」には、「感染・危害」「機能障害」「苦痛緩和」などが入っている。そして、「救命医療」については保険の給付率を高める一方で、「自立医療」については給付率を引き下げる方向性が示されている。将来の財政危機時には、「自立医療」を対象として削減を図ることになるという。いまから将来の危機への備えを進めるという問題設定は、政府のなかからは出てきにくい重要な論点である。
資源制約下の医療資源の配分の問題は、欧米の生命倫理学において長い議論の歴史がある(加藤尚武、飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』(1988年)第6部「医療における配分の倫理」所収論文の最も古い日付は1969年)。
たとえば、1)年齢による選別(終末期医療にかかる論議や、近年我が国でも議論が活発になっている質調整生存年(QALY)、Fair inningsなど)、2)医学的メリットによる選別(臓器移植の際の適合性検査や災害時等のトリアージ)、3)自己責任による選別(喫煙者だった肺癌患者と非喫煙者の患者の扱いは同じでよいのか)、4)富による選別(自腹の切れる者にはよい医療)、5)将来の社会貢献または過去の功績による選別(天才科学者の卵と凡人の治療のいずれを優先するのか)、6)運による選別(くじびき)、といった具合に様々な提案がなされている。
それぞれの基準の得失については山のように論文が書かれている。ただ、一口に医療資源といっても、金銭的資源が問題となる状況において、臓器移植の適合性検査やトリアージのように臓器や時間という資源が問題となる状況と同じロジックが使えるのか、議論があろう。臓器や時間という物理的資源に比べ、金銭的資源による制約は制約の度合いが緩いと認知されているのだろうか。それとも健康と金を比較考量することに、我々が持つ嫌悪感が影響しているのだろうか。そして、なによりも、これらの雑多な選別基準に関する論議を、実際の医療制度改革全体にどうつなげるかという議論が薄いようにみえる。
そうした意味で本書による提案は、この重要な欠落を埋める意義を持つものである。著者の提案を契機に、欠落を埋める議論が本格化することを期待したい。
高度医療を平等に受けることは可能か?
その上で、印南氏らによる提案にひとつ注文を付けるとすれば、医療高度化の取り扱いである。著者の提案が医療費適正化を図る上で必要十分なものであるのか、評者は多少の疑問なしとしない。癌のような高額医療は、本書の分類では「救命医療」に分類され、手厚い支援のもとに置かれることになる。
ただ、救命にかかるものであっても、非常に大きな資源を要する医療技術が今後ますます開発されてくることを見込むなら、救命医療といえども、一定の資源制約のもとに服さざるえない事態も考える必要があるのではないか。本書の医療費増加要因の分析では、医療技術の高度化を十分に分析できないことは既に述べた。医療技術の高度化への目配りを加えることで、本書の分析と提案はより見通しのよいものになるのではないか、というのが評者の感触である。
医療提供体制が需要を誘発するといった類の産業構造上の問題が諸賢の知恵と努力で一定の解決に導き得る問題だとするなら(こういう乱暴な物言いは評論家みたいだと霞ヶ関では誹りを受ける)、それでもなお我が国の医療費を公共政策の一丁目一番地に押し上げる要因があるとすれば、それは巨視的にみて高齢化と医療技術の進歩とみるべきであろう。高齢化は稼働人口に比して、要治療人口が劇的に増加する問題。医療技術の高度化は、生産力が低下しつつある経済のなかで、急速に奢侈財と化しつつある医療を、皆保険のもとで全国民に均霑(きんてん)しつづけることが持続可能であるかという問題である。現に途上国がそうであるように高度な医療の均霑を断念する途を取るのか、そうではないのなら、どこを見直すのか(この問題についての本書なりの考えは、コラム(18、19)形式で触れられている)。
いずれにせよ、本書を契機に広範で深みのある議論が交わされることを期待したい。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion