今年の日本列島は、気温が低い初春だったため、ソメイヨシノ開花以降寒い日々が続き、長く桜を楽しむことができました。しかし4月になったら、急に6月並みの気温の日がやってきて、「急激な春」となったりと、なにやら少しあわただしい感じがします。
クラシック音楽の本場、ヨーロッパは日本列島に比べてはるかに高緯度地帯で、冬が長く、春を待ち焦がれるマインドが強いために、春へのあこがれをテーマにした曲が多い・・・とは、メンデルスゾーンの「春の歌」を取り上げたときに書きましたが、今日は、そのメンデルスゾーンが指揮者として初演した彼の友人の作品、ロベルト・シューマンの交響曲 第1番 「春」を取り上げましょう。
全4楽章をわずか2か月で完成
このシューマン最初の交響曲がなぜ「春」という愛称で呼ばれるかというと、彼自身がもともと最初に完成させたときに、4楽章すべてに春の季節を思わせる表題をつけており、全体としても「春の交響曲」と呼んでいたからです。
シューマンは初演後に交響曲の楽譜の音をメンデルスゾーンのアドバイスなどをもとに後に改定しますが、各楽章の副題も削除してしまい、本当なら現代では「交響曲 第1番 変ロ長調 作品38」とだけ呼ぶべきなのですが、ベートーヴェンの交響曲でも、自らはタイトルをつけなかったのに、「英雄」「運命」などと呼ばれているように、愛称は人口に膾炙しやすく、この曲も「春」というタイトルをつけたまま呼ばれることがほとんどです。
実際に、冒頭第1楽章から、春がやってきてウキウキしているような気持ちを表したかのような軽快なリズムの旋律がほとばしり、春というタイトルが無くても、春らしい・・春の暖かさを感じつつ、花が咲き乱れる光景を目にした時のようなすがすがしい気持ちにさせてくれます。
シューマンは、無名の詩人アドルフ・ベトガーの詩にインスピレーションを得て、わずか数日間で全体のスケッチを完成させ、総譜、つまり作品全体も全4楽章もある交響曲としては異例の短期間である2か月ほどで仕上げたといわれています。確かに、二十代からすでに沢山のピアノ曲、室内楽曲、歌曲を発表していたシューマンはこの時点で十分にキャリアのある作曲家でしたから、この曲を書いた1841年、31歳の彼にとっては交響曲を「早書き」することなど造作もないことだったのかもしれません。
しかし、オーケストラの大規模な曲を書くときには、さすがのシューマンもいつも苦労し、ピアノ協奏曲は完成までに構想から長期間を要していますし、交響曲についてもこの第1番以前に、いくつか未完成のもの、出来に満足せず、全体としてまとまって演奏されなかった作品などを残しています。しかも、30代になったばかりのこの時期、シューマンは、作曲に関しては歌曲に没頭していて、ピアノ曲をほんの少し書いた他は、歌の曲ばかり量産していた時期でした。そこへ突然、降ってわいたように、決して得意ではない交響曲を、かような短期間で書き上げることができたのか?
17歳のクララとの恋が法廷闘争に
通常、よく語られるエピソードとしては、シューマンはウィーンに故シューベルトの兄を訪ねた時、シューベルトの未発表の交響曲(現在では「ザ・グレート」の愛称で呼ばれる第8番、古くは第9番と呼ばれていました)を発見し、音楽評論家としてのシューマンはこの曲を世に紹介し、自身も作曲家として交響曲を完成させなければ、と触発された、というものですが、シューマンがウィーンを訪れたのは3年も前のことで、時期が開きすぎているようにも思います。触発されたなら、もっと早い時期に着手していたはずなのです。
実は、彼が20代、音楽評論家・出版者としても活躍したのは「作曲家では食えない」からであり、ピアニストとしても指を壊して挫折、つまり「演奏家でも食えなかった」からなのです。しかし、26歳の時、彼のかつてのピアノの師、フリードリヒ・ヴィークの娘、クララ・ヴィークと再び出会い、熱烈な恋愛がスタートしていたのです。
師の下で最初に出会った時のクララはまだ子供の「ステージパパに仕込まれた早熟の天才ピアニスト」でしたが、今や17歳の「立派なピアニスト」となっていました。恋に落ちた二人の関係に立ちはだかった存在は、クララの父でシューマンの師であった、ヴィークでした。大切なエリート教育を施したピアニストの娘を、ピアニストとしては挫折し、作曲でも芽が出ていないために評論で食いつないでいるようなシューマンにはやれない!というのが父としても、マネージャーとしてもの思いだったのでしょう、とにかく猛反対で、2人で会うことはおろか、手紙のやり取りまで禁止します。そして、ついには法廷闘争となり、ヴィーク氏は次第にシューマンの人格攻撃を始めます。「シューマンは飲んだくれのヨッパライだ!」というようなものですが、皮肉なことに、その「飲んだくれ」を証明する客観的な証拠が無かったために、裁判所はシューマン側を勝訴とし、結婚を認めます。
クララ主催の公演で「春」初演
長い法廷闘争を経て、1840年8月12日に結婚許可を勝ち取ったシューマンは、9月12日に結婚式を挙げます。
9月5日までワイマールで「クララ・ヴィーク」として演奏会をしていた彼女は、1841年3月31日、ライプツィヒで「クララ・シューマン」としてカムバックします。この公演は彼女の主催公演で、主役はクララでした。ピアニストとして、ショパン、メンデルスゾーン、スカルラッティ、当時ピアニストとしてリストのライバルだったタールベルクなどの作品を弾き、そしてもちろん、夫となった、ロベルト・シューマンのピアノ作品を取り上げたのみならず、共通の友人、メンデルスゾーンが率いるゲヴァントハウス管弦楽団によって、交響曲 第1番「春」もあわせて初演されたのです。
当時は、ピアノ独奏とオーケストラ作品や室内楽作品をミックスして演奏するスタイルは通常のことでした。
長年の法廷闘争を経て、クララとようやく結ばれたロベルト・シューマンは、ちょうど人生の「春」を満喫していたところだったのです。そして、交響曲作曲家としてのロベルトもここに誕生したのです。
「ロマン派」の主要な作曲家となるシューマンの、ロマンチックな時期に情熱をもって作曲された作品、交響曲 第1番「春」。「人生の春」という表現がありますが、シューマンはまさに自分の人生の「春」に後押しされて、この曲をわずか2か月で完成させ、世に送り出しました。
本来、「春」は、急激にやってくる季節なのかもしれません。
本田聖嗣