17歳のクララとの恋が法廷闘争に
通常、よく語られるエピソードとしては、シューマンはウィーンに故シューベルトの兄を訪ねた時、シューベルトの未発表の交響曲(現在では「ザ・グレート」の愛称で呼ばれる第8番、古くは第9番と呼ばれていました)を発見し、音楽評論家としてのシューマンはこの曲を世に紹介し、自身も作曲家として交響曲を完成させなければ、と触発された、というものですが、シューマンがウィーンを訪れたのは3年も前のことで、時期が開きすぎているようにも思います。触発されたなら、もっと早い時期に着手していたはずなのです。
実は、彼が20代、音楽評論家・出版者としても活躍したのは「作曲家では食えない」からであり、ピアニストとしても指を壊して挫折、つまり「演奏家でも食えなかった」からなのです。しかし、26歳の時、彼のかつてのピアノの師、フリードリヒ・ヴィークの娘、クララ・ヴィークと再び出会い、熱烈な恋愛がスタートしていたのです。
師の下で最初に出会った時のクララはまだ子供の「ステージパパに仕込まれた早熟の天才ピアニスト」でしたが、今や17歳の「立派なピアニスト」となっていました。恋に落ちた二人の関係に立ちはだかった存在は、クララの父でシューマンの師であった、ヴィークでした。大切なエリート教育を施したピアニストの娘を、ピアニストとしては挫折し、作曲でも芽が出ていないために評論で食いつないでいるようなシューマンにはやれない!というのが父としても、マネージャーとしてもの思いだったのでしょう、とにかく猛反対で、2人で会うことはおろか、手紙のやり取りまで禁止します。そして、ついには法廷闘争となり、ヴィーク氏は次第にシューマンの人格攻撃を始めます。「シューマンは飲んだくれのヨッパライだ!」というようなものですが、皮肉なことに、その「飲んだくれ」を証明する客観的な証拠が無かったために、裁判所はシューマン側を勝訴とし、結婚を認めます。