頭のいい馬鹿ほどはた迷惑な馬鹿はいない―― 「毒」と切れ味鋭い箴言集

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■「ラ・ロシュフコー箴言集」(二宮フサ訳、岩波文庫)

   17世紀フランスの古典に今さら書評もないとは思うが、ふとした契機に再読し、思うところがあったのでご紹介する次第である。

毒が薬に転じる面白さ

   ロシュフコーは、モンテーニュなどと並びフランス文学史上のいわゆる「モラリスト」と位置付けられている。仏文学史に疎い評者はモラリストを正確に定義し得ないが、短文で断定的に人間の内面を抉る流派、と勝手に理解している。

   岩波文庫版の箴言集では、表紙に「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」との箴言が抜き書きされている。挑発的かつ逆説的な表現だが、これが本箴言集の大きな特徴であり、後代の多くの文学者から批判された所以でもあろう。

   更に例を挙げてみよう。

「頭のいい馬鹿ほどはた迷惑な馬鹿はいない」
「老いは若い時のあらゆる楽しみを死刑で脅して禁じる暴君である」
「その真価が美貌より長持ちする女はめったにいない」

など。

   本箴言集の特色は、これくらいで十分ご理解頂けるであろう。毒が薬に転じるのが本書の妙趣ではあるものの、子供に読ませたい本ではない。

   また、公開を前提としていなかった「考察」という文章もあり、ロシュフコー公爵没後に出版されたそれらも収録されている。文庫本の3ページ前後で一つの題が完結する小文の集まりであり、箴言の断言調はそのまま、論理的な整合性など感じさせない記述である。

   革命にはまだ百年ほど間がある、フランス貴族社交界の空気はどのようなものだったか。人間関係の遊泳を生業としていた人物が、そこで感得したことがここに示されているとすれば、貴族というものも、それはそれで随分と面倒な生き方を強いられていたものと空想される。

箴言の現代的意味

   古典の古典たる所以は、それが現代にも通じるところにあろう。

   例えば以下のような文章はどうだろうか。

「人は物事をあるがままに正しく見ず、その値打ちを過大か過少に評価するし、また事物と自分の関係を、事物に則さないで、自分の境遇や性質に都合のよいようにこじつけてしまう。この取り違えが無数のまやかしを趣味や考え方にもたらすのである」
「十分に検討せずに悪ときめつける性急さは、傲慢と怠惰のあらわれである。人は罪人を見つけようと欲して、罪状を検討する労を厭うのである」

   17世紀のフランスと21世紀の日本に、異同はそれぞれ多くあろうが、人間の内面はそう変わるまい。ただ、往時はそれを表立って喧伝する者は少なく、内面は内面のままで温存されていたものだろう。本書も当時は匿名で出版されたという。

   然るにインターネットは、大衆がその内面を各々表出させる時代を作り出した。単なる落書きに過ぎぬ「無数のまやかし」を万人が書き、万人がこれを読む。

   「自分の境遇や性質に都合のよいようにこじつけ」られた事物が証拠もなく流布され、「傲慢と怠惰」の故に「罪状を検討する労を厭う」結果、無辜の人を魔女狩り宜しく糾弾する時代である。即ち、箴言が迫った、かつては滅多に表に出てこなかったであろう人間性の一面の真理を、否応なく日常的に目にする時代である。

   そうした時代に、これら箴言はどう活かされるだろうか。

   所詮人間はそのようなもの、という諦念を与えてくれる場面もあろうし、疑心暗鬼を増幅させる負の効果も生み得よう。箴言が含む毒の故に、身の処し方や物の見方を大胆に見直す契機となるかも知れない。

   もしそうした価値がこの古典の再評価につながるとすれば、それも時代の変遷のなせる業だろう。以上、再読に値すると感じた事訳である。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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