箴言の現代的意味
古典の古典たる所以は、それが現代にも通じるところにあろう。
例えば以下のような文章はどうだろうか。
「人は物事をあるがままに正しく見ず、その値打ちを過大か過少に評価するし、また事物と自分の関係を、事物に則さないで、自分の境遇や性質に都合のよいようにこじつけてしまう。この取り違えが無数のまやかしを趣味や考え方にもたらすのである」
「十分に検討せずに悪ときめつける性急さは、傲慢と怠惰のあらわれである。人は罪人を見つけようと欲して、罪状を検討する労を厭うのである」
17世紀のフランスと21世紀の日本に、異同はそれぞれ多くあろうが、人間の内面はそう変わるまい。ただ、往時はそれを表立って喧伝する者は少なく、内面は内面のままで温存されていたものだろう。本書も当時は匿名で出版されたという。
然るにインターネットは、大衆がその内面を各々表出させる時代を作り出した。単なる落書きに過ぎぬ「無数のまやかし」を万人が書き、万人がこれを読む。
「自分の境遇や性質に都合のよいようにこじつけ」られた事物が証拠もなく流布され、「傲慢と怠惰」の故に「罪状を検討する労を厭う」結果、無辜の人を魔女狩り宜しく糾弾する時代である。即ち、箴言が迫った、かつては滅多に表に出てこなかったであろう人間性の一面の真理を、否応なく日常的に目にする時代である。
そうした時代に、これら箴言はどう活かされるだろうか。
所詮人間はそのようなもの、という諦念を与えてくれる場面もあろうし、疑心暗鬼を増幅させる負の効果も生み得よう。箴言が含む毒の故に、身の処し方や物の見方を大胆に見直す契機となるかも知れない。
もしそうした価値がこの古典の再評価につながるとすれば、それも時代の変遷のなせる業だろう。以上、再読に値すると感じた事訳である。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)