1685年の3月21日に中部ドイツ・チューリンゲン地方のアイゼナハに生まれたヨハン・セバスチャン・バッハは、当時としては大変長命な65年の生涯の半分近くを、中西部ザクセンの都市ライプツィヒで過ごします。38歳からライプツィヒの聖トーマス教会の音楽の責任者として働いたからで、バッハの重要な仕事は教会で日曜日に使われる音楽、聖書の物語を音楽で表現するカンタータと呼ばれるものを毎週作曲するというものでした。
教会音楽以外のジャンルにも進出
このコラムもほぼ毎週更新ですが、教会用のカンタータという、大人数で演奏し、毎回違う大規模な曲を毎週作曲して、楽譜を人数分書き写して、楽団員に練習させて、日曜日は礼拝での本番の演奏指揮をして・・ライプツィヒのバッハの日常はかなり忙しいものでした。
しかし、ライプツィヒの音楽責任者に任命される前の彼は、そこから50キロほど北、同じザクセン地方のケーテンという町の宮廷での楽長職を、32歳から6年間勤めていました。その時の領主レオポルドが大変な音楽好きだったために、宮廷内で演奏する器楽作品、協奏曲作品を作ることが要求され、バッハは、音楽的才能を発揮してのびのびと活躍でき、器楽作品を量産することができていたのです。以前このコラムでも取り上げた、鍵盤楽器のための作品、フランス組曲や平均律第1巻もこの時代に作られています。
大都市ライプツィヒの教会に勤めるようになったバッハは、最初の数年はその新しい仕事に忙殺されたのでしょう、教会音楽以外のジャンルにあまり手を出していませんが、数年たつと、もともとケーテンの宮廷で磨いた腕を発揮したくなったのか、鍵盤楽器のための作品集を企画するようになります。教会音楽は、あくまでも教会の中での仕事、つまり給料の中での働きなのに対して、器楽作品の楽譜を売り出せば、ライプツィヒのような都会ではたくさんの音楽愛好家が購入してくれて、給料と別枠の収入と、作曲家として宗教曲だけでなく、世俗曲に関してのより一層の名声が獲得できる・・ということも考えていたかもしれません。
鍵盤楽器の最高峰のひとつ
ともあれ、それまで鍵盤楽器・・・当時はまだほとんど「ピアノ」という楽器が普及していませんので、主にチェンバロで演奏することが想定されていました・・・の作品として、たくさんの舞曲形式からなる小曲を組み合わせた「組曲」という形式で、現在では「フランス組曲」、「イギリス組曲」と呼ばれている作品をケーテン時代に完成させていたバッハは、その延長線上の作品を作り始めます。組曲形式とは、「アルマンド」「クーラント」「サラバンド」「ジーグ」という基本骨格を形作る舞曲を決められた順序の通り配置し、そこに、第1曲目として「プレリュード」を前に追加したり、「ガヴォット」「ポロネーズ」「メヌエット」といった最新流行の舞曲を最終曲「ジーグ」の前に配置したりする形式ですが、すでに自分の作品に自信を深めていたバッハは、さらに大胆に新しい舞曲を付け加えたり、伝統的な舞曲名がついていても斬新な響きを持つ曲を次々に作り出します。
おそらく、教会音楽の仕事の忙しい合間を縫っての作曲だったはずなのですが、バッハは、1726年に第1番の組曲、1727年に第2番と第3番、1728年に第4番、1730年に第5番と第6番とそれぞれの組曲を印刷楽譜とし、1731年に多少推敲を加えて、全体を一つの曲集として、「クラヴィーア練習曲集第1巻:作品1」としてまとめて出版しました。作品(番号)1、としたところからも、バッハの作品にかける意気込みがつたわってきます。
すでに彼は、フランス趣味や、イギリス風の様式なども取り入れた組曲を作ってきていたので、この組曲には音楽先進国、そして、ドイツでも「おしゃれな」というイメージのあるイタリア趣味を取り入れました。この曲集は、バッハによってイタリア風の「6つのパルティータ」というタイトルを与えられ、現代のピアニストにとっても重要なレパートリーとなっています。円熟期のバッハが生み出した、鍵盤楽器のための最高峰の作品の一つ、と言って差し支えない、工夫とドラマにあふれた曲集です。バッハのピアノ音楽のエッセンスを味わうことができ、第1番から第6番まで、いずれも甲乙つけ難く、どの組曲もそれぞれに個性があっておすすめです。
ちなみに、楽譜の扉ページには、「クラヴィーア練習曲集。プレリュード、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグ、メヌエット、その他の典雅な楽曲を含む。愛好人士の心の憂いを晴らし、喜びをもたらさんことを願って、ザクセン=ヴァイセンフェルス公宮廷現任楽長ならびにライプツィヒ市音楽監督ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。作品I。自家蔵版。1731年。」という長い記述があります。練習曲、と書かれていますが、これは現代の私たちが想像する古典派のツェルニーなどの練習曲とは違い、「演奏することによって、様々な曲が体験できる」というほどの意味で、ライプツィヒの前任者が出版していた曲集タイトルを模倣したものと考えられています。オルガンやオーケストラを必要としない、チェンバロさえあれば、家庭でも演奏できる器楽曲ですから、バッハがいわばライプツィヒの一般市民に向けて発表して、評価を問うた自信作だったのですが、当時から「かなり演奏の難易度が高い」として、残念ながら売れ行きは思ったほどではなかったようです。
本田聖嗣