今週は、少し趣向を変えて「1曲」を取り上げるのではなく、ある作曲家の「事件」を取り上げてみようと思います。
今週3月7日が誕生日のフランス近代を代表する作曲家、モーリス・ラヴェルにまつわる、「ラヴェル事件」というものです。ラヴェルはすでにこのコラムでも「水の戯れ」、「左手のための協奏曲」、「クープランの墓」などの作品を取り上げていますが、そのほかにも「ボレロ」やムソルグスキーの「展覧会の絵」のオーケストラ編曲版などでも大変有名です。
何度挑戦しても第1位にはなれず
彼は、スペイン国境にごく近い、南フランスのシブールという大西洋に面した町に生まれていますが、生まれてすぐパリに引っ越したので、パリジャン、といってもよいでしょう。音楽好きの両親のもとで音楽を勉強し、14歳でパリ音楽院に進学し、ピアノや和声法を学びます。20歳でパリ音楽院をいったん卒業するころには、もうすでに作曲した作品がいくつかあり、このころすでに演奏家よりも作曲家として生きていくことを決めていたようです。
そして、23歳に再びパリ音楽院に戻り、パリ音楽院出身ではないにもかかわらず、名声が轟いていたために教授に任命されていた作曲家にしてオルガニスト、ガブリエル・フォーレの作曲クラスに入学します。本気で、作曲家を目指す意思表明といってもよい行動です。
現在では形が変わりましたが、当時のパリ音楽院作曲科には、「ローマ賞」というコンクールがありました。30歳までの若手作曲家が、指定された形式の曲を与えられた時間内に作曲し、審査員の評価で優勝と認められれば、ローマ大賞受賞者としての栄誉と、副賞として、イタリア・ローマのフランスアカデミーへの作曲留学の機会が与えられます。フランスを代表する作曲家、ベルリオーズ、グノー、ビゼー、マスネ、ドビュッシーなどが、1等賞と呼ばれるローマ賞グランプリを獲得しています。
1900年、25歳のラヴェルは、ローマ賞に初めて挑戦します。この年は初年度ということで、入賞はなりませんでしたが、翌年の26歳での2回目の挑戦の時、第3位を獲得します。ローマへの留学と「ローマ賞受賞者」という栄誉は、ほぼ第1位にのみ与えられるので、彼はこの結果に満足せず、27歳の時に3回目の挑戦を、28歳の時にも4回目の挑戦を行います。予選を突破して本選には進むものの、なぜか第3位以上の順位はもらえませんでした。29歳の時はさすがに、嫌気がさしたのか受験しませんでしたが、年齢制限ギリギリ、つまり最終年度となる30歳の時に、ラヴェルは5回目のローマ賞挑戦を行います。
・・・そして、なんと、この年は予備審査で落選という結果になってしまったのです!
ある教授が自分の門下生を依怙贔屓
30歳のラヴェルは、すでに「亡き王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」「シェエラザード」「弦楽四重奏」などの作品も発表した若手の才能ある作曲家という世間の評価もありました。そして、以前には第3位相当の賞も受賞したことのある彼が、予選も通過できなかったという事実は「事件」となります。つまり、なにか「政治的な力が働いて彼は拒否された」という抗議の声が先輩・同僚の作曲家や芸術家、一般市民の中からもあがったのです。
最終的には、この事件によって、パリ音楽院の当時の院長デュボワは辞任することとなり、後任にラヴェルの恩師だったフォーレが任命されて、音楽院の改革に乗り出すことになります。ラヴェルは残念ながら、年齢制限を超え、ついに「ローマ賞 第1位」は受賞することなく、作曲家の道を歩み続けます。しかし、ここからのラヴェルは、名作を立て続けに生み出し、20世紀最初には、フランスを代表する作曲家となり、今でも彼の作品は世界中で愛され、演奏されています。
今年、大統領選を迎えるフランスは、とても「政治的」な国です。大統領が変わり、政権が交代すると、音楽院の校長から事務の職員まで交代する・・というあたかもホワイトハウスの主の交代劇のようなことが起こるのを、私も在仏時代に目の当たりにしてきました。フランスは、誰にとっても「政治」が身近な国で、そのこと自体はいいことですが、自分が当事者として、その争いなどに巻き込まれると厄介です。
ラヴェル事件・・・実際は、ある音楽院の教授が門下の生徒を依怙贔屓したいがために、実力のあるラヴェルの予選通過を阻んだ、というのが真相のようです・・でラヴェルは当然受賞してもよい栄誉を逃しましたが、この一件によって、かえって注目され、彼の実力はあらためて高く評価されることとなったのです。
本田聖嗣