祖国への激烈な思いをもちつつも帰れない胸の内
ウィーンでは自分の作り出す音楽が受け入れられないと感じたショパンは、次なる都市、パリを目指します。祖国ポーランドが大国によって分割されたとき、たくさんの貴族が亡命し、フランスに居住していたからでした。ショパン当時のワルシャワを抑えていたロシアの傀儡政府はそのことを当然知っているので、ショパンは、パリ経由ロンドン行きの旅券を申請してパリに向かうことになります。
ウィーンで書き始められ、パリで出版されたショパンの作品が、「スケルツォ 第1番」になります。もともとイタリア語で冗談、諧謔、を意味します。ベートーヴェンが、それまで交響曲の第3楽章に使われていた3拍子のゆったりした舞曲、メヌエットをエキサイティングなものにするために、「スケルツォ」という形式を確立しますが、ショパンは、その名前を流用したものの、ベートーヴェンの作品とも全く異なる曲想を編み出します。もちろん、ショパンのスケルツォは管弦楽曲ではなく、すべてピアノ独奏曲です。
スケルツォ第1番は、1831年ウィーンで書き始められたことがわかっていますが、彼は、ウィーンに失望し、パリに向かう途上のドレスデンで、祖国で、ロシア傀儡政府に対して立ち上がった反乱軍が鎮圧され、弾圧されたニュースを耳にします。祖国への激烈な思いを持ちながら、彼はパリに到着し、ウィーンとはまた違った先進都市の魅力を味わいながら、一方で、祖国に帰れない胸の内を吐露したかのような激しい「スケルツォ 第1番」を完成させたのです。
ベートーヴェンは緩い速度のメヌエットを刷新するために、「スケルツォ」を交響曲に投入しましたが、ショパンは一方でウィーンで流行していた同じく3拍子の「ワルツ」も書きながら、一方で、大変激しい3拍子の「スケルツォ」にも情熱を注ぎこんだのです。
本田聖嗣