島の南北が「分断」している
とはいえ、日本人にとってキプロスは縁の遠い場所だ。同国政府の発表によれば、2015年に日本から同国を訪れた観光客はたった611人。日本の新聞やテレビの報道でも、「キプロス」の国名に接する機会はほとんどないだろう。
いったい、キプロスとはどんな国なのか。そして、首都ニコシア周辺にはなぜ2つの異なる文化が混在しているのか。――この疑問を解くため、まずはキプロス島の歴史を簡単に振り返ってみたい。
キプロスは古くからヨーロッパと中東を結ぶ海上貿易の拠点として栄え、ローマ帝国による支配(紀元前1世紀~12世紀末)やオスマントルコ帝国による支配(16世紀~19世紀)など異なる文化圏を持つ国々に統治されてきた。島の中に歴史的・宗教的価値の高いモスクと教会の両方が数多く残っているのは、そのためだ。
そんなキプロス島は、第二次世界大戦後の1960年に国として独立。だが、1974年に起きたギリシャ系住民のクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入したことで、島の南北が完全に分断された。
こうした分断状態は、現在も続いている。そのため、日本の四国の半分ほどの面積しかないキプロス島は、トルコ側が支配する「北キプロス・トルコ共和国」(トルコのみ国家承認)と、ギリシャとの結びつきが強い「キプロス共和国」の2つに分かれている。両国を分断しているのは、鉄条網などでできた「グリーン・ライン」という境界線だ。
「南北分断」の影響について、キプロス共和国の西側にある都市・パフォスに住む中年女性は1月27日、
「当時の人口の3分の1に達する20万人が、分断の影響で家を失いました。例えば、島の南側にあったトルコ人集落からは人が消え、いまも廃墟のままです」
と話していた。