霞が関から読み解く漫画版ナウシカ:ポリフォニックな喧噪を愉しむ

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ナウシカからの反撃(カント的議論、価値観に基づく議論)

   ここまでシュワの墓所の主の立場を擁護し、ナウシカの選択を責める論を展開してきた。しかしながら、改めてナウシカの事例を見直すと、これが話の半面であることがわかる。

   シュワの墓所の主を遺した過去の人間と、ナウシカの世代の関係をみれば、過去の人間が主というシステムを介してナウシカの世代を道具と化し、その運命を支配しようとしていることが理解できる。「自身及び他者の人格にある人間性を単に手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」。カントの論じた通り、人間を道具として扱ってはならないのである。いかにナウシカが高潔な人物であったとしても、道具扱いまでされては、自分たちを犠牲にして未来の人間を救うほどの度量を持てというのは酷であろう。

   ナウシカの立場を擁護する議論をさらに補強することができる。この議論を、評者はかつて「いまだ生まれざる者の声を聞くことの意義 『仮想将来世代』が可視化する未来の人々とは...」(16年4月)で取り上げたことがある。

   人間そのもののあり方を左右する政策の採否を問う場合、価値観の問題を切り離すのは困難である。たとえば、ゲノム編集により人体の機能の改善(例:気分障害の因子の排除、認知能力の向上)が可能になる一方、なんらかの損失を伴う、例えば、詩作の能力を損なう場合、我々は未来の子どもたちにその操作を施すべきだろうか。詩作の喜びを失うことは、現在の我々(の一部)からみれば重大な損失であろう。現在の価値観からみれば、詩作の能力を本源的に失った人間は、人として重大な欠陥を持つのであるから、すくなくとも彼らが子孫を残すことは許されるべきではない。そう論ずる者がいても不思議ではない。

   同様にシュワの墓所の主、さらにその製作者である過去の人間にとって、ナウシカ世代の人間は腐海の環境に適用すべく作り出された人間にすぎず、きたるべき本来の力を持つ文明の復活までのつなぎ役にすぎない。

   それでも、ゲノム編集を受けた未来の人間にしてみれば、詩作の才能の喪失を損失と感ずることさえできないだろう。そのゲノム編集の採否に関し、現在の価値観から否定するのは誤りであり、未来の価値観こそ尊重されるべきではないのか。

   そして、ナウシカも言う。「私たちの生命は私たちのものだ」。

   一見して自明な答えはどこにもない。

   『風の谷のナウシカ』の作品としての美質は、このようなポリフォニック(多声的)な魅力にある。ナウシカ、シュワの墓所の主、(多くは触れることができなかったが)巨神兵など、多様な声が時に対立し、時に共鳴し、全体として壮大な音楽を奏でる。

   ドストエフスキーの作品の特徴を、ポリフォニーという切り口から呈示したのがミハイル・バプチンであった。『風の谷のナウシカ』は、ポリフォニックという意味でドストエフスキーにも通ずる文学的価値を有する漫画作品のひとつである。

経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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