名人サラサーテとの出会い
しかし、2つのことがおこりました。42歳の時に生徒の一人で、やはり軍人の家系だからということで結婚した妻ジュリーは優れたアルト歌手で、それまでラロが書き溜めたたくさんの歌曲作品を歌って夫を励ましました。
一方で、1870年代、パリの音楽の潮流が変化してきたのです。それまでのオペラ一辺倒から、ヴィルトオーゾ・ソリストの名人芸を堪能する器楽コンサートの人気が高まり、そこに登場したのが、スペインのスーパー・ヴァイオリニスト、パブロ・デ・サラサーテだったのです。
サラサーテは、ラロに出会うと、自分の高い技術に合わせて、さらにソロ・パートを難しくするように要求しました。そして、1874年にサラサーテのソロヴァイオリンで「ヴァイオリン協奏曲第1番」が上演されると、まず大成功となります。
ラロにとって、サラサーテとの出会いは、高いテクニックを要する協奏曲を作る動機を与えてくれただけでなく、自分の中に眠っている先祖の血...「スペイン」を思い起こさせてくれるものでした。同じ1874年、事実上の「ヴァイオリン協奏曲 第2番」であるにもかかわらず、「スペイン交響曲」として、発表された作品は、フランスから見ていつもエキゾチックな隣国、スペインの情緒があふれた曲で、スペイン人、サラサーテの名人芸によって初演されると、空前の大ヒットとなります。ちょうどビゼーのスペインを舞台にしたオペラ「カルメン」の1か月前に初演されたこの曲によって、パリにはいわば「スペインブーム」が到来し、そのあとに続く作曲家たち...ビゼー、シャブリエ、ラヴェル、ドビュッシーといった人は、スペインに実際に足を運んだり、スペイン風の作品を作曲したりすることになったのです。
ラロ自身にも、大変な名声をもたらした「スペイン交響曲」ですが、気が付いてみれば彼はすでに51歳になっていました。演奏だけでなく作曲家も志してパリに出奔してきた若いころのラロにとって、若いころの作品は認められず人生に懐疑的になったかもしれませんが、50を超えて、サラサーテと出会い、パリの音楽シーンが変化して、結果的にラロは、音楽史に残る名曲を生み出したのです。協奏曲、というソリストにフォーカスしただけの作品と受け取られたくない、これはスペインをモチーフにした巨大な「交響曲なんだ!」というラロの当時の意気込みが、タイトルに込められているのです。
本田聖嗣