独奏曲などを協奏曲に書き直す
独奏楽器ピアノ(当時は現在ではピアノフォルテと呼ばれているピアノの初期モデルの時代でしたが)と、オーケストラを使いこなし、これらの作曲をわずか11歳で成し遂げているとはやっぱり天才だ・・!と長い間考えられてきましたが、20世紀に入って、これらは、当時パリで活躍していたドイツ系の作曲家の独奏曲などを、協奏曲の形に書き直したものだということが判明しました。
いうなれば、「編曲」作品だったのです。現在も残る自筆譜から、そこには父レオポルドの筆跡もかなり認められ、父の指導の下、当時流行していた、または一流と考えられていた作曲家の作品を、協奏曲の形に書き直すことによって、そのスタイルを学び、同時に自分の作曲するときの腕を上げていった、と考えられています。
まだまだこの時代、モーツァルト親子は、職を求めてヨーロッパ中を旅して、宮廷に売り込みを図っているときでした。そこで、御前演奏をするために、少年モーツァルトは最新流行の音楽をたくさん知っていなければならなかったのです。父親が、少年の売り出しと、少年の作曲の才能を鍛えるために考え出した、それは一石二鳥の方法でした。
もちろん、この後少年は自らの楽想から本当のオリジナルであるピアノ協奏曲 第5番をこれまた若干17歳の時に生み出すのですが、それ以前には、天才少年といえども、先輩の作品を模倣したり、編曲したりする「修業時代」があったのです。
天才は1日にしてならず、息子の才能を信じていたからこそ、父レオポルドはそのことを肝に銘じて優しくも厳しい指導を続けたのかもしれません。
本田聖嗣