ひと昔前までは1月15日固定という感覚だった成人の日ですが、最近はハッピーマンデー制度により移動するようになりました。2017年の今年は1月9日の月曜日となり、7~9が三連休でしたから、事実上「松の内の延長」気分で、どことなくお正月が続いていましたね。本来は9日に行うべき成人の日の行事も、Uターンラッシュや10日からスタートする久しぶりの平日に備えて、1日前倒しで8日に行ったところもあったようです。
今日取り上げる曲は、「音楽の父」J.S.バッハが、20歳になった時に書いた有名なオルガン曲、「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」です。
ヴァイオリニストとしてキャリア始まる
バッハが生きたバロック時代、すなわち17世紀後半から18世紀にかけては、現代と比べると平均寿命も短く、その時代の20歳というと、現在より十分大人だったのかもしれませんが、65歳の天寿を全うしたバッハにとって、20歳はやはり「若い時代」でした。代々音楽家を輩出してきたバッハファミリーの一員であったので、ヨハン・セバスティアン・バッハも若いころから熱心に音楽を学び、音楽家になるのが既定路線でした。
18歳の時、出身地アイゼナハと同じチューリンゲン地方の都市、ヴァイマールの宮廷楽団のヴァイオリニストに就職し、プロとしてのキャリアをスタートさせます。そして、同じチューリンゲンのアルンシュタットという街の教会に新しいオルガンが設置された、ということで、バッハはその試弾にゆき、腕前を認められて、オルガン奏者にも任命されます。現在は「バッハ教会」と呼ばれているアルンシュタットの教会での勤務はそれほど忙しいものではなかったので、彼は20歳を迎えた時に、4週間の休暇を取って、北の都市、リューベックを目指すことにします。そこには、広く名が轟いていた名オルガニスト、ブクステフーデがいたからです。現代風に言えば、既に大学入学年齢から現場で働いていたバッハが、さらに専門職の腕を磨くため、自ら休暇を願い出た、というところでしょうか。彼の向学心がうかがえます。
師の娘との結婚を断るも...
しかし「若者はお金がない」のは今も昔も変わらない相場で、ドイツ中部チューリンゲンの森北部にあるアルンシュタットから北部バルト海に面したリューベックまでは400キロも距離があるのですが、バッハはなんと徒歩で北を目指します。途中で空腹で倒れそうになりながらもリューベックに到達したバッハは、噂にたがわぬブクステフーデの素晴らしい演奏を聴き、感激します。実は、ここで、バッハも演奏し、腕を認めたブクステフーデから、リューベックが務める聖マリア教会オルガニストの後任にならないか・・・と持ちかけられたのですが、それには「ブクステフーデの30歳の娘と結婚すること」という条件が付いていたので、バッハは丁重に辞退します。10歳年上のお嫁さんをもらう条件と抱き合わせのポストは、バッハといえども承諾しかねたのでしょう。
4週間のはずが、気が付いたら3か月もの長期休暇になってしまい、バッハは戻ったアルンシュタットでひどく非難されます。無断で休暇を大幅延長した、ということと、彼がリューベックから帰ってきたら、オルガンの演奏がどえらく斬新なものになってしまい、保守的なアルンシュタットの人たちが驚いてしまったからです。それだけ、ブクステフーデの演奏は、バッハに衝撃を与え、彼は、その体験から新たな音楽を生み出す力が湧いてきたのです。
この時期に作曲された1曲が、オルガン曲「トッカータとフーガ ニ短調」です。冒頭のトッカータの出だし部分が、現代でもサスペンスドラマやCM、さらには替え歌となって日本でも親しまれているこの曲は、バッハの時代以降すべての人を魅了し、ブゾーニなどによるピアノ編曲版も頻繁に演奏されています。
「成人」になったばかりのJ.S.バッハの20歳のみずみずしい感性が、偉大な先人の演奏にインスパイアされて生み出した曲は、クラシック音楽史に残る名曲となったのです。
本田聖嗣