後進国ロシアの真の価値に気がつく
作曲を習い始めてすぐに、5年かけて「交響曲 第1番」を作曲した後、すぐに「交響曲第2番」の作曲に取り掛かります。既に第1番の時点から習作というより立派な完成度を見せていたボロディンの交響曲ですが、第2番は、より「ロシア的」色彩が強くなります。
実は、彼は音楽家仲間である「力強き5人組」と接することによって得たものは、作曲技術だけではありませんでした。「ロシア」そのものだったのです。
つまり、彼の「専攻」である有機化学の分野を極めれば極めるほど、彼は西ヨーロッパの優位性・・言い換えればロシアの後進性を認めねばなりませんでした。音楽も、ドイツなどでドイツ音楽に接していたため、同じく「西欧派」と批判されたチャイコフスキーとは別のルートで「西欧贔屓」になっており、「交響曲 第1番」では、明らかにシューマンの影響などが見て取れます。音楽という文化以上に、国力が反映される科学研究の現場にいた彼なら、当然の結論、というかコンプレックスだったはずです。
しかし、ロシアの伝統文化や伝統音楽の中に価値を見出し、「新しいロシア音楽」を作ろうともがいた「ロシア5人組」のメンバーと交流して、ボロディンはロシアの真の価値に気づくようになります。そして、1877年に完成された「交響曲 第2番」には、ロシア的な色彩が色濃く反映されたのです。仲間のムソルグスキーによって「スラヴの英雄の交響曲」というタイトルが提案されたこの曲は、ボロディンによって「交響曲 第2番 勇士」として発表されます。初演時の評判は芳しくなかったものの、その後少し改作し、5人組仲間のリムスキー=コルサコフの指揮によってサンクト・ペテルブルクで演奏されると評判となり、また海外でも、かのフランツ・リストがドイツなどで紹介し、ボロディンの名がロシア国外で作曲家の名前として初めて認識されるようになります。
勇壮な第1楽章、どこか東洋的な旋律がゆったりと美しい第3楽章、師走にぴったりな、疾走する第4楽章、自らを「日曜作曲家」と呼んだボロディンの隠れた名作をあわただしい師走ですが、ぜひ、聴いてみてください。
この後、ボロディンは代表作、オペラ「イーゴリ公」に取り掛かりますが、本業でもますます忙しくなって、その作曲作業は困難を極めますが、それはまた別の機会のお話としましょう。どうぞよいお年をお迎えください。
本田聖嗣