手本をどこに求めるべきか
大軍を率いて押し寄せる西郷に、恭順の意を表しつつもあくまで理のあるところを申し立て、遂には相手にその筋を通させる。鉄舟のこの胆力。
評者には眩しい限りだ。
行政にあって、最後に責任を取るのは政治である。疎まれようとも、その「最後」まで政治に「理」を述べるのが我々の矩であろう。「平成の政治に西郷の如き度量はあるまい」などと、ぶつかっても見ずに勝手な憶測をして、直言しない言い訳をしていないか。
偉人伝を読むと、このように自らの小ささを自覚させられる。これは時に苦しい。だが読了後は必ず清々しい心地になり、少し背筋が伸びる。食事が身体への栄養補給とすれば、伝記は精神への栄養補給だ。
歴史上の偉人より、もう少し身近にはどうか。今風にいう「ロールモデル」はその役割を果たし得るか。評者は少々懐疑的だ。無論、職場の先輩や異業種で活躍する人を目標にすること自体否定するつもりはない。だが、ネットで雑文を書き散らす「メディア」事業で一儲けしようなどという、浅ましい皮算用を指して「起業家の志」などと持てはやす風潮にはうんざりだ。
大企業も最初は今いうベンチャーだった。その黎明期を支えた戦前戦後の名経営者の言葉と、昨今の「起業家」の言葉の重みの違いはどうだ。
「棺を覆いて事定まる」という。本書読了直後に、しばらく前に亡くなった官僚の大先輩の追悼文集が届けられた。ページを繰りながら、この言葉の重みを噛みしめる年末である。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)