本人しかわからないリアルを語る 1人称で語る病
本書は、日記をそのまま載せてあり、レビー小体型認知症の症状の実際と著者の切羽詰まった心や揺れ動く思いがストレートに伝わってくる。
「今日も仕事でミス。一度も忘れたことのない手順がわからなくなった。こういう瞬間が、本当に恐ろしい。何もかもが、崩れ落ちていく気がする」
「私はあと何年正気を保っていられますか? 私の理性は、いつまで病気に勝てますか?」
中には、同年代の評者も時々実感する言葉もある。
「『きんぴらごぼう』と『かりんとう』という言葉が、各10秒位出なかった。初めて。どんなものかはよくわかっていて、言葉がでない。『ごぼうをささがきにして炒めたもので・・・』と考えていってやっと出た。ショックをうける」
幻視に苦しんでいた時期には、次のような辛い言葉が並ぶ。
「滅んでいく。私は、滅んでいく。そう常に思っている。それは、さびしいものだ。進行することが怖い。体調不良も一匹の虫も計算を間違うことも曜日を間違うことも、それ自体は小さなことなのに、私の根拠なき信念を根底から揺さぶる」
「がんになると体のどこが痛んでも『再発か!?』と怯えるという。認知症は、あらゆるミス、ど忘れ、一匹の虫の幻視でも『進行か!?』と怯える。再発は、死と隣り合わせ。認知症の進行は、同じ死でも『社会的死』か。家族を苦しめること、人格が崩壊したような言動をすることは、死ぬよりも辛い」
一人称で語られる言葉には実感がこもっており、説得力がある。と同時に、同じ病気について語りながらも、医師達との間には無限に隔てられた壁がある。
「(レビーの研究をする医師たちの学会で)研究発表を聞きながら、私は、とても不思議な気がしていた。医師達は、三人称で話す。人間というより患者、患者というより症例を語る。私は、それを一人称のこととして聞く。語られる症状は、私が日々味わっている症状で、そこには、痛みがあり、苦しみがあり、嘆きがあり、闘いがある。そこには、色があり、ぬくもりがあり、匂いがあり、弾力がある。同じ症状について語られているのに、それは、まるで別の次元のものに感じる」