「落胆の時代」に出会った享楽的なメキシコの風景
1932年、彼は、友人の作曲家にして指揮者、カルロス・チャベスの招きにより、初めてメキシコを訪れます。そこで、「エル・サロン・メヒコ」という名のナイトクラブを訪ねます。大きなダンスホールを3つ持ち、キューバ風の楽団が入ったそのクラブは、コープランドに強烈な印象を残します。メキシコの音楽に酔いしれる人々が、活き活きと見え、この様子をぜひ音楽にしたい、と思わせたのです。
それまで、「新しいアメリカの音楽」を模索していたコープランドは、ドイツ風の、難しい音楽を作ろうともがいていました。当然、人気など出るはずがなく、そうした「落胆の時代」に出会った享楽的なメキシコの風景が、彼の中に何かをもたらしたのでしょう。メキシコを題材にした彼の音楽としては2番目になる作品、「エル・サロン・メヒコ」・・つまりナイトクラブの名前をそっくりそのまま曲の題名としたのですが・・が1936年に完成します。1937年にはチャベスの指揮によりメキシコシティで初演され、1938年には、ラジオの放送で、アメリカに初上陸します。
「私は音楽を直接聴いたのではなく、メキシコの人たちの精神に魅了されたのだ。そして、その精神が自分の作品に注入できるように作曲したのだ。」と彼はこの作品について語っています。初演の時に、批評家に「コープランドは、メキシコの特徴的かつポピュラーなメロディーの数々を、その新鮮さと美を少しも失うことなく、もっとも純粋で理想的な形に、統合し、曲として完成させたのだ。」と絶賛されたこの曲は、アメリカでも大ヒットとなり、コープランドはこれ以降、アメリカを代表する作曲家となりました。後に、同じくアメリカを代表する作曲家にして指揮者、ピアニストでもあるバーンスタインが、ピアノソロ、デュオ版に編曲しています。
コープランドはアメリカの民謡や風景などを採り入れた聴きやすいアメリカン・クラシックを作り続け、「最もアメリカ的な作曲家」といわれるようになりましたが、彼の出世作は、メキシコの首都のナイトクラブの喧騒の中で生まれたのです。
本田聖嗣