世界はアメリカ新大統領にD.トランプ氏が決まったことで揺れています。果たして、彼は選挙戦中に語っていた過激な政策を就任したら実行するのか・・・その憶測で多くの人がおののき、トランプ・ショックともいうべき影響を世界に与えています。
トランプ氏の公約、たとえば、移民を拒絶し、メキシコとの国境に、メキシコの費用負担で壁を作る・・・誰もが実行は不可能だといぶかる過激な方針、その過激さゆえトランプ候補は大統領にはなれないだろう、と予想されていた極端な政策は、はたして1月の就任以降、現実となるのでしょうか?
今日取り上げる曲は、次期大統領で注目を浴びているアメリカの作曲家、それも「とてもアメリカらしい」といわれることの多い、アーロン・コープランドがメキシコを描いた作品、「エル・サロン・メヒコ」です。
リトアニア系ユダヤ人の移民の子、8歳で作曲
コープランドは、ちょうど1900年の11月14日、リトアニア系ユダヤ人の移民の5番目の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれました。彼の父は、アメリカに渡るため、途中スコットランドで数年働き、船の代金をためて、やっとの思いで渡航したのです。それだけ、移民大国アメリカには希望があったのでしょう。ロシア風の名前カプランを、アメリカ風の名、コープランドに変えたファミリーは、ニューヨークに居を構えます。父は音楽に無関心でしたが、母がピアノを嗜み、歌を歌って、子供たちに音楽のレッスンをしました。その中で育ったアーロンは、8歳から作曲をし始め、13歳から本格的にピアノを習い始めます。そして15歳の時、ポーランドの首相も務めたピアニストにして作曲家、イグナツ・ヤン・パデレフスキのコンサートを聴いて感激したコープランドは、作曲家になることを決意します。
彼の父は、アメリカの通常の大学に進むことを希望したようですが、ヨーロッパのクラシック音楽に惹かれていたコープランドは母の応援を受け、21歳の時にパリに留学します。両大戦間のパリで、イジドール・フィリップ、ポール・ヴィダル、そしてナディア・ブーランジェといった名教師たちに音楽を師事したコープランドは、また一方でソルボンヌ大学に通い、生活の中で、ヘミングウェイ、ピカソ、シャガール、モディリアーニといった、各国からパリに集っていた幅広い芸術家たちとも交流を深めます。
ニューヨークに戻って作曲家として活動し始めたコープランドですが、多国籍なパリではぐくまれた彼のマインドは、決して北米アメリカに閉じこもっていませんでした。
カナダから、南米、そしてアフリカなどを頻繁に旅行した彼は、各地の音楽に興味を持ち、民謡やフォークソングを自らの作曲に取り入れていったのです。