先週は、シューベルトの歌曲の名曲、「魔王」が世に出るまでの経緯をとりあげましたが、今日は、同じように世に出るまでに紆余曲折があった有名作曲家の曲を取り上げましょう。チャイコフスキーの交響曲 第1番 ト短調 Op.13 「冬の日の幻想」です。
サラリーマンから「ただの音楽学生」に
幼いころから音楽的才能を表していたチャイコフスキーですが、ヨーロッパの辺境にあるロシアでは、19世紀半ばを過ぎても音楽家の地位は低いものでした。いや、というより、まだ本格的な音楽学校はなかったので、職業的音楽家がまだ国内では存在し得ていなかった、といってもよいでしょう。そんな社会的状況もあり、チャイコフスキーは法律を学び、役人として勤務しますが、音楽への情熱断ち難く、21歳の時、西欧やアメリカで活躍していたロシア人ピアニストで作曲家のアントン・ルービンシュタインによってサンクト・ペテルブルクに開かれた音楽塾に通うことにします。
音楽塾は翌年音楽院に改編され、チャイコフスキーは役人勤めをしながら音楽院の生徒、ということになりますが、校長アントン・ルービンシュタインから、音楽的才能を認められたばかりに、批判に満ちたある提言を受けます。音楽に専念するなら、勤めを辞めるべきだ、ということです。チャイコフスキーにとっては、もともと気が進まないサラリーマン生活ではありましたが、経済的基盤をもたらしてくれる課長待遇のポストをなげうって「ただの音楽学生」になるのは大変な決心だったはずです。しかし、翌年、チャイコフスキーは勤めを辞めて、音楽の勉強に専念します。
音楽院を卒業しても、もちろん、ロシアではまだまだ音楽家として生きてゆくのは大変でしたが、彼の才能を見込んで、アントンの弟、同じくピアニストで作曲家だったニコライ・ルービンシュタインが良い提案をしてくれます。彼がモスクワに開いたばかりだったモスクワ音楽院の講師として招いてくれたのです。小さなころから音楽的才能を発揮していたとしても、脱サラして音楽院に数年通っただけのチャイコフスキーを、新学校の教授陣として迎えるという、ニコライの大英断でした。
そして、ほぼ同じころ、チャイコフスキーに交響曲の作曲を勧めるのです。一人前の作曲家として認められるためには交響曲かオペラを書かねばならないと、チャイコフスキー自身が思っていたようですが、モスクワの音楽院が開講する直前はまだ暇で、大作の作曲の時間があった、ということも着手の理由のようです。