めげなかった友人たちの努力の結果
・・・・しかし、シューベルトの友人たちはめげませんでした。お金がなく自費出版をすることができないシューベルト本人に代わって、ライプツィッヒにある名門出版社、ブライトコップフに清書した楽譜を送付します。
・・・しかし、やっぱりここでも評価されませんでした。さらに間の悪いことに、「当社は貴殿の楽譜を出版しないことに決定いたしました。」という拒絶の手紙と楽譜を、ウィーンにいたフランツ・ペーター・シューベルト本人ではなく、ドレスデンで活躍中の29歳年上の作曲家、フランツ・アントン・シューベルトに送り返してしまったのです。ミドルネームを書くのは一般的ではないので、両方とも「フランツ・シューベルト」ということになり、出版社の担当者が同姓同名の、より有名な赤の他人に、勘違いして送ってしまったのですね。楽譜と手紙を受け取ったドレスデンのシューベルトは、「私の名を騙って、こんな駄作を出版しようとするなんてけしからんやつだ!!」と激怒の手紙を出版社に送り返したそうです。
・・・・しかし、シューベルトの「魔王」が駄作でなく名作であるのは、みなさんご存じのとおりです。こういった騒動にも、めげず、友人たちが努力した結果、ウィーンの音楽好きが集まる音楽会で演奏され、その機会に内輪向けの出版楽譜に掲載され、さらに後日、ウィーンの劇場で演奏されるとすぐに評判となり、一般向けの楽譜としてついに出版されることになると、瞬く間に数百部が売れ、シューベルトに名声と経済的利益をもたらしたのです。結果的に、シューベルト作品で、最初に公に出版された楽譜となり、最初に作曲された作品ではないのですが、「作品番号 1」をつけられました。ラテン語の「作品」という単語オーパス(Opus)に由来するクラシック音楽の番号は、出版順につけられるのです。
市井の人々が評価したことによって、シューベルトの代表曲となった、「魔王」、現在では日本の教科書にも載っていますが、ゲーテも、シューベルトの死後に再び聞いて、今度は打って変わって高く評価したとのことです。
本田聖嗣