障害福祉論議を開かれた、理に適ったものにする社会的基盤とは

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「障害の社会モデル」の一層の基礎づけが必要ではないか

   経済学からバックアップを受けつつ、『障害を問いなおす』では、「障害の社会モデル」の標準理論化と精緻化が図られているわけであるが、同時に評者は、「障害の社会モデル」の一層の基礎づけが必要だとも感じたことも書いておきたい。

   障害問題の真の所在が社会にあると唱えてみたところで、バリアフリー投資に追加費用がかかるのは厳然たる事実である。バリアフリーを必要とする人数が一定のマスに達するのであれば、投資は経済合理性を持つものとして実行されるか、あるいは、政治過程を通じた規制・補助金などを通じた誘導という途がひらける。ただ、マスに至らない障害の場合はどうすればよいのか。問題の所在は社会の側にあると唱えるだけでは、具体的処方箋が出てこない。レアな障害に対応するものであっても、多額の投資は強行されるべきだろうか。あるいは、レアなタイプの障害者は受忍すべきなのか。「障害の社会モデル」は運動論として機能しているのかもしれないが、現実の障害福祉制度をポジティブに構築する指針としては充分とはいえない。

   障害福祉の存在根拠を詰めて考える必要がある。その際の支えになるのが哲学ではないか。例えば、ロールズの「無知のベール」の舞台装置においては、各人が持つ能力までもが本人に本来的には帰属しない偶然天から降ってきたもののように扱われる。能力(障害)は人間共通のプールに帰属し、各人には偶然的に配分されるに過ぎないのであるから、不遇な者の処遇を優先する彼の主張は、「障害の社会モデル」にはないもっともらしさを得る。ドゥオーキンの「責任と補償」の議論もまた、「無知のベール」の仕掛けと結びつくことで、「仮想的保険市場」というアイデアを生みだしている。障害を負って生まれてくるリスクを事前(出生前)に踏まえて、そのリスクをカバーするためどの程度保険料を払う意思があるのか。こうして集められた保険料が障害福祉の財源となる。

   基礎的な議論に踏み込むことの利点は、障害福祉の正当性、もっともらしさを高めることにとどまらない。同時にその限界を明らかにすることにある。能力が人間共通のプールに本来所属すると聞かされたところで、実際に人々がそう納得するかどうかは別問題である。ロールズのロジックが保障する障害福祉の水準は、共同体の一体感の度合いによる制約から自由ではない。現に我々は国内の障害者にはそれなりの支援をしているが、国外の例えばアフリカの障害者には僅かなことしかしていない。「仮想保険市場」は障害福祉の根拠を保険という考えにより合理的に説明するが、他方、過度に高い保険料の支払いは避けられるであろうから、自ずと障害福祉の水準を限界付けているのである。個々の理論の適否は別途紙幅を割いた検討を要するが、基礎づけに踏み込むことで、はじめてあるべき制度の射程と限界がみえてくるのである。

    はじめに述べた通り、障害福祉の問題は広く国民一般が関心を寄せて然るべきものである。経済学さらには哲学など普遍性の高い分野との対話を通じ、議論の多様性を高め、障害福祉論議が開かれた、理に適ったものとなることを期待したい。

経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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