■「陸王」(池井戸潤著、集英社)
「今年こそ」と思って応募した東京マラソン2017だが、また外れてしまった。情けないことに、初回(2007年)から11回連続、落ち続けている。今回の応募者は何と32万人超、抽選率は12.2倍だったという。この状況では、チャリティ枠(10万円)に挑戦せぬ限り、生涯、首都のど真ん中を走る機会はないかもしれない。
世はランニングブーム。評者が自宅近くの駒沢公園で走り始めたのは2000年だが、当時、公園内の周回コース(2.1キロ)を走っている人はまばらだった。それが今や週末ともなれば、3メートル間隔で老若男女がひしめている。
スポーツ用品店に出かければ、ランニング専用コーナーが設けられ、色とりどりのウェアやシューズが並んでいる。評者の場合、靴底の摩耗のため、年に2度ほど、ランニングシューズを買い替えるが、毎回、選択に悩む。「完走できれば大満足」というレベルのランナーだから、こだわっても仕方がないのだが、それでも店頭でいろいろ考えてしまう。
本書は、そんなランニングシューズの開発をめぐる物語。著者は、「空飛ぶタイヤ」「ルーズヴェルトゲーム」「下町ロケット」などベストセラー連発の池井戸潤。100年の「のれん」を誇りとする零細の足袋メーカーが、生き残りをかけて、ランニングシューズ『陸王』の開発に打って出るというストーリー。従来作同様に、ものづくりを大切にしてきた中小企業が、大企業の数々の妨害に苦しみながら、それを乗り越えていく姿が描かれる。
出会いがあり、つながりが生まれ、画期的な成果となる
588ページもの大部な小説ながら、不況業種に甘んじてきた足袋メーカー(こはぜ屋)とケガで華やかな表舞台から離脱せざるを得なくなったランナー(茂木裕人)が結びつき、やがて復活を遂げていく展開は感動的だ。ついついページをめくるスピードが加速し、一気に読了してしまった。今度は、ぜひ、テレビで観たいものだ。
足袋をベースに、ランニングシューズを作るという発想は、決して突飛なものではない。本書を読んで初めて知ったが、日本において「マラソンの父」と称される金栗四三(かなぐりしそう)は、足袋を履いて、マラソンの世界記録を出したという。
実際、『こはぜ屋』にはモデルがあった。埼玉県行田市に所在するメーカー「きねや足袋」だ。著者自身が訪れ、ランニング足袋「きねや無敵」を取材していったという。
きねや足袋のホームページでは、自社製品「MUTEKI」について、こう紹介している。
『伝統的な製法で仕上げた足袋そのものに、柔らかくグリップ力の高い薄さ5㎜の天然ゴムソールを手縫いで縫い付けた新しいタイプの履物です』
『限りなく素足感覚に近づけました。MUTEKIを履いて走ると自然とつま先から着地するような感じになる為、人間本来の走り方を取り戻すツールの1つになります』
本書でも紹介されているが、メキシコの辺境に住むタラウマラ族は ワラーナと呼ばれるサンダルのような粗末な履物で1日に数十キロ、ときに数日かけてウルトラマラソンに匹敵する距離を走るという。
つまり、人間本来の走りを考えると、ソール(靴底)の厚いシューズよりもむしろ、薄いものの方が適しているのだ。
しかし、ビジネスはそう単純ではない。足袋にゴムを付けただけでは、耐久性に欠けるし、そもそも競合他社が簡単に参入してしまう。
本書の面白さは、マラソン足袋を世界に通じるランニングシューズへと発展させていく、製品開発のプロセスにある。
「他では真似できないソールが欲しい。特徴的で機能的なソールが・・・」と社長の宮沢紘一が苦闘する中で、思いもよらない技術に出合い、その特許を持つ頑固な技術者を引き入れ、生産を実現する。
加えて、実績ある大手メーカーを離れて、「陸王」に賭けてくれたランナー(茂木)の意見を丁寧に聴きながら、ひとつひとつ改善を繰り返し、完成度を高めていく。
さらに、アッパーと呼ばれる足を覆う部分の素材に、保温性と通気性という相矛盾した性質を実現するために、柔らかく強靱な布を生産するベンチャー企業と手を組む。
それぞれの場面で、出会いがあり、つながりが生まれ、画期的な成果となる。ものづくりの醍醐味だろう。社長の宮崎が語った次の一言が印象的だ。
「ビジネスというのは、ひとりでやるもんじゃないんだな。理解してくれる協力者がいて、技術があって情熱がある。ひとつの製品を作ること自体が、チームでマラソンを走るようなものなんだ」