先週は、フランス近代の作曲家、モーリス・ラヴェルが、第1次大戦で命を失った友人たちに捧げた「クープランの墓」を取り上げましたが、今週は、同じ第1次大戦で傷ついたピアニストのために書いた作品、「左手のためのピアノ協奏曲」を取り上げましょう。
いわゆる両大戦間、フランスが「狂乱の時代」と呼ばれた文化の爛熟期を迎えていた1929年、ラヴェルは「ボレロ」の大成功の後、ピアノ協奏曲の作曲依頼を、ほぼ同時に2つ受けます。一つは、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーから、アメリカのボストン交響楽団の50周年のための作品でした。クーセヴィツキーは指揮者というより偉大なプロデューサーで、彼の依頼でラヴェルは1922年に今でも世界中で定番とされているムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」をオーケストラ版に編曲しています。この依頼はラヴェルの代表作となる「ピアノ協奏曲 ト長調」に結実します。
哲学者ヴィトゲンシュタインの弟
この曲と同時に受けた依頼は風変わりなものでした。オーストリアの著名な哲学者ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの弟で、ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタインが依頼者だったのですが、「左手だけで弾けるピアノ協奏曲」という注文だったのです。ヴィトゲンシュタインは、第1次大戦中ロシア戦線に出征し、右腕を失っていたのでした。
古今東西のピアノレパートリーにおいて、「左手のための作品」は有名無名合わせて結構な数存在します。一般的にピアニストも右利きが多いため、左手はどうしても右にくらべて動きがぎごちなくなりがちです。左手を集中的にトレーニングすることに主眼をおいたツェルニーや、サン=サーンスの「練習曲」、ショパンのオリジナルでも難しい「練習曲」を、左手のみで弾くようにし、さらに難易度をあげたゴドフスキーの「ショパンのエチュードによる練習曲」、自らがスーパーピアニストで、練習のし過ぎで右手を痛めた時に自分で弾くために書いたスクリャービンの「前奏曲とノクターン」、バッハのヴァイオリン独奏を左手のために編曲したブラームスの「シャコンヌ」・・・これも練習曲集のうちの1曲として書かれています・・・など、多くは「練習曲」というジャンルの作品ですが、名のある作曲家が手掛けた作品もたくさんあります。
依頼者が勝手に改変して演奏
ラヴェルはそれらの作品ももちろん念頭に置いた上に、作曲に取り掛かりました。出来上がった作品は3つの部分に分けられるものの、間を置かずに演奏される見かけ上「単一楽章」の作品となりました。重々しいピアノソロが展開される最初の部分と、同時に手掛けられていた「ピアノ協奏曲 ト長調」を思わせるジャズ的な中間部、そして、左手だけでは演奏不可能に思える華麗なるソロ・パート(カデンツァ)を備える終盤、というスタンダードな構成で、18分ほどの堂々たる協奏曲となりました。
実はヴィトゲンシュタインは、「左手のためのピアノ作品」を当時の大作曲家に数多く依頼していて、ラヴェルを筆頭に、イギリスのベンジャミン・ブリテン、ドイツのフランツ・シュミット、リヒャルト・シュトラウス、オーストリアのエーリッヒ・コルンゴルト、ロシアのセルゲイ・プロコフィエフなどに声をかけていました。このうち、プロコフィエフがピアノ協奏曲第4番、ラヴェルがこの作品で「協奏曲」の依頼に応えたのですが、肝心の依頼者であるヴィトゲンシュタインがプロコフィエフの作品は「理解不能」と却下したため、一時お蔵入りに近くなってしまい、ラヴェルの作品も、難しすぎると勝手に改変したりして初演すると、作曲者ラヴェルと険悪な雰囲気になりました。
しかし、後にパリで別のピアニストによってオリジナルのまま演奏されると、ラヴェルの円熟期のこの「左手のための協奏曲」は人気曲となり、現在でも、世界でもっともよく演奏される左手のための作品となっています。変わった依頼にも真面目に応えたラヴェルの努力は、正当に評価されたのです。ヴィトゲンシュタインも、後に、勝手に改変したことを後悔し、ラヴェル作品の素晴らしさを称賛したコメントを残しています。
本田聖嗣