第1次大戦で命を落した友人と、フランス音楽にオマージュをささげたラヴェル「クープランの墓」

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   先週は、フレンチバロックの作曲家、フランソワ・クープランを取り上げましたが、今日はそのクープランの名前を名前に冠した20世紀の作品、モーリス・ラヴェルの組曲「クープランの墓」を取り上げます。

   ヴェルサイユ宮廷が繁栄し、王家と共に音楽家も脚光を浴びたフランスのバロック時代ですが、ご存知のように、フランスは革命が起こり、王家は滅び、その後の政治体制も二転三転、皇帝ナポレオンが登場し束の間の帝政を行いますが、彼も没落し、王政と共和制の間を行ったり来たりします。生活が安定しなければ芸術も繁栄しないのは当然で、クラシックにおける「フランス音楽」は、18世紀後半から19世紀にかけて、音楽史でいえば、古典派からロマン派前期の時代にかけて、イタリアオペラやドイツ系の音楽に対して、劣勢は否めません。古典派ではモーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、ロマン派もメンデルスゾーンやシューマンやブラームスなどドイツ・オーストリア系の作曲家が多く名を残し、パリで活躍したショパンやリストはみなポーランドやハンガリーからやって来た外国人でした。オペラも、フランスは生産国というより消費国で、この時代はイタリアオペラやフランスに住んだイタリア人の作品が人気でした。

  • 初版の楽譜扉はラヴェル自身の自筆で記されている。『モーリス・ラヴェル クープランの墓 両手による6つのピアノのための作品』
    初版の楽譜扉はラヴェル自身の自筆で記されている。『モーリス・ラヴェル クープランの墓 両手による6つのピアノのための作品』
  • 最終曲トッカータの譜面には、『ジョセフ・ド・マルリアーヴ大尉の記憶に』と印刷されている
    最終曲トッカータの譜面には、『ジョセフ・ド・マルリアーヴ大尉の記憶に』と印刷されている
  • 初版の楽譜扉はラヴェル自身の自筆で記されている。『モーリス・ラヴェル クープランの墓 両手による6つのピアノのための作品』
  • 最終曲トッカータの譜面には、『ジョセフ・ド・マルリアーヴ大尉の記憶に』と印刷されている

第一次世界大戦に飲み込まれるフランス

    19世紀後半になって、「フランスの音楽」を作り出そう、という動きがあらわれました。サン=サーンスやフォーレといった作曲家が中心になり、「国民音楽協会」という団体が旗揚げされ、フランスオリジナルの作品発表の場を作り、次第に盛り上がりを見せるようになります。近代フランス音楽の一つの頂点が1862年生まれのドビュッシーで、ちょうど絵画の「印象派」と活躍時期が重なるため「音楽の印象派」と言われています。19世紀末から20世紀初頭にかけて、フランス芸術は、絵画でも音楽でも、「ベル・エポック」の輝きを見せたのです。

   ドビュッシーより少し後、1875年生まれのモーリス・ラヴェルは20世紀に入ってから、ドビュッシーに代わりフランス楽壇の中心に躍り出た作曲家でした。代表作「ボレロ」などで知られるラヴェルは、本人も頭から足先までこだわるオシャレな人でしたが、作品も、冷静な頭脳に支えられた構造のもとに、バスク系母親譲りのスペイン的情緒などがスパイスとして加えられた素晴らしい作品を次々に生み出します。まさに、近代フランス音楽の爛熟期の人でした。

   ところが、欧州では、第1次大戦が勃発します。最終的には連合国として勝利をおさめる側に立ったフランスですが、強いドイツ軍に攻め込まれ、ヴェルダンなど国土が戦場になり、国力を大幅に落とします。大戦終結の1918年にはドビュッシーが亡くなり、熱心な愛国者だったラヴェルは虚弱体質にもかかわらず志願兵として出征し・・・・銃は撃たせてもらえず、せいぜい出来たのは「運転手」でしたが・・・体調を崩して入院除隊ということになります。作曲家たちの生活も「戦争」に飲み込まれたのです。

クープラン「クラヴサン組曲」を意識した構成

   ラヴェルは戦争で数多くの友人を亡くしました。同時に戦場の現実を自分の目で見て、ある作品に着手します。戦時中に書かれたそのピアノ曲の名前は「クープランの墓」。フレンチバロックの作曲家ファミリーの名前を借りたこの曲集は、前奏曲、フーガ、フォルラーヌ、リゴードン、メヌエット、トッカータという6曲からなり、フランソワ・クープランの「クラヴサン組曲」を意識した構成になっています。1曲1曲はそれぞれ戦場で命を落した友人たちに捧げられています。難曲である最終曲トッカータは、音楽学者だったジョセフ・ド・マルリアーヴ大尉に捧げられており、初演は戦後の1919年に、マルリアーヴの妻、つまり戦争未亡人となったフランスを代表するピアニスト、マルグリット・ロンの手によって、パリで行われました。

   19世紀末から興隆を見せたフランス文化が、第1次世界大戦と共に失われていく悲しみを、ラヴェルは感じたのでしょう。各曲は友人に捧げられ、全体としてはフランス音楽に捧げられた音楽は、題名の通り、「墓標」だったのかもしれません。第1次大戦の天文学的な賠償費が、その後のドイツ社会の不安をあおり、さらに大規模な第2次世界大戦の遠因となったことは現在では知られていますが、再び平和が失われ、芸術が失われるというそんな未来も、ラヴェルはひょっとして見通していたのかもしれません。ラヴェルは第1次大戦後も亡くなる1937年まで作曲を続けますが、病気のせいもあって作曲のペースは大幅に落ちていますし、そのころになるとフランスの次世代の作曲家の台頭や、戦争を機に関係がさらに欧州と深まったアメリカからやって来た「ジャズ」など新しい音楽の影響もあり、ラヴェルは時代の寵児ではなくなります。

   先人の文化に敬意を払いつつ、新しい創作を重ねたラヴェルにとって、「クープランの墓」は、いろいろな意味が込められた「オマージュ」の作品なのです。実は、フランス語の原題、「ル・トンボー・ド・クープラン」の「トンボー」は、墓、という1番目の意味の他に、故人を偲んで捧げる、という意味もあるのです。

本田聖嗣

本田聖嗣プロフィール

私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミ エ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソ ロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラ マ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを 務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。

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