社会疫学とパノプティコン
近藤氏の提唱する社会疫学とパノプティコンを並べてなにがみえてくるのだろうか。二者は異なるものであるいう論者は、社会疫学が提案している施策が間接的なものにとどまっていることを挙げるだろう。再配分を通じた貧困層の所得改善は、貧しい者に自由に使える貨幣を与えるだけであるし、職場環境の改善や加工食品会社への規制を通じた減塩も、貧しい者の生活に直接介入するわけではない。
しかしながら、両者の間には、社会環境への介入を通じて、人間の行動を変えようという根本の発想において共通項がある。自由で主体的な人間の選択に期待するのではなく、あたかも人間を与件に応じて変化する関数の束のように眺め、薬剤を投与するかのごとく環境を変えてみるのである。評者には、政策手段が直接的であるか、間接的であるかは相対的違いに過ぎないようにみえる。むしろ、社会疫学として、実効性の期待できる介入を志向すれば志向するほど、介入は個人に直接働きかける的を絞ったものになっていかざるをえない。単純で普遍的な所得保障が、財源の問題や政策の効率性から難点を抱えることは既に指摘した。職場環境の改善や減塩政策といった、もう少し的を絞った政策に対しては、評者も期待を寄せているけれども、それでもおそらく不十分であり、すると、より一層個人をターゲットにした施策が要請されるだろう。生活保護における伝統的なケースワーカーの役割はいうまでもない。第二のセイフティーネットともいわれる生活困窮者自立支援制度や、職業訓練、ジョブカードなどの雇用分野の施策など、思い起こせば、近年の政策が個別的介入の度合いを高めていることに気付くだろう。マイナンバーの活用はそうした動きを強めていくだろうし、個人のゲノム情報の活用も然りである。現代の政策は次第にパノプティコンに引き寄せられている。
もちろん、個人情報保護やプライバシーなどの別の現代的要請には細心の注意を払う必要がある。他方、表面的なパノプティコン批判の段階で立ち止まっていることでは、社会に対し十分な責任が果たせないのも事実ではないか。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion