旺盛な創作意欲で外国の作品の楽譜を取り寄せて勉強
それでも、バッハには、ドイツとは違う、外国の音楽の長所や魅力を重々理解していました。インターネットはもちろん、ファクシミリや電話さえない世の中でしたが、楽譜の流通はヨーロッパ内で成立していたため、バッハは外国の作曲家の作品を自国の先輩たちの作品と合わせて、楽譜を取り寄せて研究することによって勉強してゆきます。自分の中に蓄積したものを、今度は作品として結実させることも怠らず、バッハは一生フランスに行くことはなかったのですが、見事な「フランス風組曲」を成立させます。ちょうどそのころ仕えていたケーテンの領主が音楽好き、器楽好きだったということもあり、バッハはたくさんの器楽曲を作曲することが出来る環境にあったということもありましたが、旺盛な創作意欲で、フランスで盛んだったチェンバロ組曲のスタイルをバッハスタイルで成立させたのです。
同時代の作品に同じようなスタイルの「イギリス組曲」と呼ばれる組曲もありますが、フランス組曲のほうが、よりシンプルで、繊細な美しさにあふれており、より一層フランス的とされています。
厳格なドイツおやじ、のイメージがあるバッハですが、音楽の興味は、フランス宮廷で流行していた典雅な「クラヴサン(チェンバロのフランス語)文化」まで及んでおり、結果として、これらの素敵な曲を残してくれたのです。ちなみに、組曲の冒頭に置かれる舞曲「アルマンド」はフランス語で「ドイツ風舞曲」という意味であり、ドイツのバッハが、ドイツで、フレンチスタイルの「ドイツ風舞曲」を作曲していた、と考えると、自国の音楽文化を他国から眺める・・・その音楽的客観性に凄さとおかしさを感じてしまいます。
本田聖嗣