鳥越俊太郎とは対極にある 覚悟の人の哲学書

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この国を主体的に作るのか、受動的に批判するのか

   明治維新後の弱小国が、植民地化をからくも逃れ得たのは「万国公法」に依拠しつつ建前の上でも列強に付け入る隙を見せなかったが故であったと聞く。中国や北朝鮮を非難する所以も、それら国家が国際的な法秩序を無視しているが故に正当性を持っている。この点を忘れてはなるまい。

   そうして考えると、我々は他の部族に押し付けられた掟(日本国憲法)を押し戴いている、という著者の理解は、少々もったいない。中世日本にも、自由主義や民主主義の片鱗は見受けられ、それらは詰まるところ人間社会で当然視されている法秩序の基礎をなすものと言えるからだ。

   むろん、著者は法を無視するものでもなかろう。違法不当な行為には、大きな怒りを表明される。その正義感は流石というべきであり、そうした純粋な気持ちを酌むのもまた法秩序の維持には不可欠である。

   してみると、著者の一見乱暴な議論は、法制度の運用を担う我々のような立場の人間へのある種の挑発あるいは叱咤と受け止めても良いのかも知れない。

   著者は、政治に対する抜きがたい不信も表明する。個人の信念においてそれを言うことを、評者は全く否定するつもりはない。

   だが、政治とより身近に接し、その苦悩を見てきている者からすれば、政治不信は民主主義への諦めとも受け止められる。一時の政権の在り方に絶望や不信を持ったのであれば、それは理解しないでもない。民主主義はそうした振れ幅を持ちうる。だが、そうした政権にあっても真摯に誠実に国民福祉を論じた与党議員はあった。

   政治は動態的な営みであって、国民はこれに主体的に関与し、公務員はこれに服して職務を全うする。政治不信が民主主義以外の択肢を模索せしめた戦前の苦い教訓を思うと、「我々は命懸けだから国家はこうあるべきだ」という論に、評者は決して与しない。

   興味深いのは、著者のそうした不満が、本書の後段を読み進めるにしたがい、脇に追いやられていくことだ。

   公職を退き政治的な発言が自由となった著者は、その信じるところに従い、「命を懸けるに値する国か?」という受動的な問いではなく、「命を懸けるに値する国を創る」という積極的な活動に勤しんでおられるものと評者は想像する。その主体性こそが民主政治に必要不可欠なものであり、意見の相違があろうとも、そうした意思を以て活動する著者に、評者は深く敬意を表したい。

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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