国益のためには「悪賢人が必要」
著者はまた、「悪賢さのすすめ」において、「プレイボーイ」を「少なく与え、多くを取る能力の長けた人」と定義した上で、日本人にはプレイボーイがいないとし、「年齢の問題ではなく、民族の問題」、「わが日本人には本質的に持ち合わせていない」と嘆く。たしかにプレイボーイでなくても日本人同士なら充分にやって行けるかもしれない(むしろこうしたプレイボーイは日本社会の「内輪の世界」では警戒されることも多いのだと思う。)が、「相手が他国人となると通用しにくくなる」と警鐘を鳴らす。野球に喩えれば、直球一本で充分と思ってきた人には「変化球を混ぜてこそ球威」という発想がないということだろうが、著者は、国益のためには「しばしば、悪賢人が必要」と説くとともに、相手によってアプローチのやり方を変えるからこそ「プレイボーイの名に恥じないプレイボーイになれる」とする著者の指摘は、私は本書の定義でも一般的な意味でもプレイボーイではないが(汗)、まさにそのとおりであると頷くしかない。この他にも、著者の韓国人とのやりとりのエピソードが紹介されているが、「かわしはしても逃げはしない」著者の姿勢は、勝負はしていても、(時には悪知恵として)「かわす」ことの有効性を説くものとしてどの分野であっても参考になるものである。著者は「ぶつかるよりも、逃がしてはいかが」において、古代のローマと中世のヴェネツィアが千年以上に亘って繁栄できた要因として、よほどのことがなければ「正面から激突するやり方には挑戦しなかった」ことを挙げているが、ローマとヴェネツィアの通史を書き上げた著者に断言されると「悪賢さ」の必要性について反論のしようもない。
本書では、これらの他にも英語を公用語にした日本企業、東日本大震災の際のがれき処理、マスコミに対する考察、等多岐に亘るエッセーがまとめられており、どれも示唆に富む。何ら答えが与えられているものではないが、着眼点も洞察も鋭く、さすが塩野七生と恐れ入るところである。私自身、実際に部下や同僚に本書を勧めてきたこともあり、本コラムの読者の皆さまにもぜひ一度手にとっていただきたい一冊としてご紹介したい。
銀ベイビー 経済官庁 Ⅰ種