【書評】至福あるいはユートピアについての過去の予言から考える
「孫たちの経済的可能性」(ジョン・メイナード・ケインズ著)
「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」(ロバート・スキデルスキー、エドワード・スキデルスキー著)
ケインズの小論に『孫たちの経済的可能性』(1930年)がある。サロンでの講演を書き起こしたものであり、難しい議論はなく、軽い読み物風の論文だ。この小論でケインズは、あと百年もすれば、人口が制御され、大戦争がなければという留保のもと、経済成長の恩恵によって経済問題は解決されるか、すくなくともその解決が視野に入ると述べている。彼がこの小論を書いてから、そろそろ百年になる。
ケインズの約100年前の予言
ケインズは、人間の必要を、毎日の食事のような「絶対的必要」と優越感の欲望を満たす「相対的必要」にわけている。百年もすれば、生産力の強化によって前者の「絶対的必要」は充足されるようになる。労働時間は大幅に短縮し、そのぶん余暇が生活の主要な部分となり、それでも充分に「絶対的必要」を満たすことができるようになる。このことをもってケインズは、経済問題の解決としたわけである。ケインズはその状態を「至福(bliss)」と呼んだ。
「共産主義社会においては、一般的生産は社会によって統制せられており、それゆえにこそ各人は、今日はこれをしたかと思うと、夕方は家畜の番そして夕食後には批評をするといった風にまったく気のおもむくままに振舞い。そのくせ、猟師であることも漁夫であることも、また羊飼いであることもついぞその必要がないのである」
このくだりはケインズの書いたものではない。マルクス『ドイツイデオロギー』からの引用である。マルクスのユートピアたる共産主義社会と、ケインズが長期の予測として提示した資本主義の未来が意外と似通っていることに気がつくだろう。
スキデルスキー父子による"100年後"の予言検証
スキデルスキー父子による『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』(原著2012年)は、このケインズの予言の検証を手始めに、近現代の社会のあり方が歴史的にみれば奇異なものであり、それを変え、古きよき伝統へ回帰していく必要を説いていく。ケインズの予言の前提条件であった、人口の制御と大戦争のないことは、必ずしも十分に満たされたわけではない。人類全体でみれば人口の制御はいまだ成し遂げられているとはいえないし、ケインズの小論から間もなく第二次世界大戦が勃発している。ただし、ケインズの母国英国を含む先進国ではおおむね人口は制御されるようになったし、第二次大戦以降、世界規模の戦争は起こっていない。そして、生産力の向上においては、ケインズの想定していた以上の進展があった。英国の一人当たり所得は、1930年からの70年間で四倍に増え、ケインズの予想(四~八倍)の下限にはやくも達した。
こうした比較的恵まれた状況であるにも関わらず、ケインズの予言から百年が迫ろうとしているのに、ケインズの想定したほどには労働時間は短くなっていない。生産性の伸びに従って労働時間が短くなるという予測は、追加的な所得がもたらす満足は次第に減るという想定に基づく。ケインズは「われわれが生きている間に、農業、鉱業、製造業の作業はどれも、これまでやってきた労働の四分の一でやってのけられようになる」とした。だが、1930年に週50時間働いていたのに対し、現在は40時間ほどまでしか減っていない。たしかに、富の分配に偏りがあることから、低所得層は必要に迫られて労働しているに違いない。ただ、中所得以上の者が働かないようになっているかといえば、そうなっていないのである。技術進歩の恩恵で、絶対水準では、ケインズの時代の高所得の有閑階級以上の生活を享受しているにも関わらず。
なぜ長時間労働がなくならないのか。ケインズの枠組みで解釈すれば、「絶対的必要」ではなく「相対的必要」によって人が突き動かされていることになる。たしかに、「おれはあいつよりもいいものを食っている」という必要には限りがない。だからこそ、ケインズが予言して百年が近づこうというのに、我々から至福はいつまでも遠いままである。企業は広告費をつぎ込んで、欲望をかき立て、さして必要とは思えないものを売ろうと血眼になっている。
もっともケインズは、ただちに「絶対的必要」に基づく生活を送るよう勧告していたわけではない。むしろ、当面の処方箋は逆である。あと百年(1930年から数えて)ほどは貪欲が人間の神でありつづける、とケインズは認めている。貪欲だけが商品の売り上げを促し、その開発を推進し、全体的な富の水準を引き上げることができる。そして、このことだけが、経済的必要のトンネルから太陽のもとへと我々人間を導くことができる、というのである。「こうしたものすべての時はまだ満ちていない。少なくともあと100年にわたり、私たちは自分たちに対して、きれいはきたなくきたないはきれいだというふりをしなければならない」。
「絶対的必要」の充足だけが「至福」への道か
スキデルスキー父子の提言は、我々がこのトンネルの出口に近づいているという認識に基づいている。出口が近いのにも関わらず、依然として貪欲を神として崇めている我々に警鐘を鳴らし、人類の歴史上の常態である、必要以上に求めない生活と経済に復する道を探る。
はたして我々は出口に近づいているのだろうか。国内、さらにはグローバルな格差が存在するから、まずはその格差をなんらかの方法で修正することが必要となる。そして、その修正が上首尾に達成できることを前提として考えることが許されるのなら、たしかに出口が近づいた徴候がないわけではない。「もはや消費者には買いたいものがないのだ」というのは経営学者らの決まり文句になっている。ラジオ、自動車、スマートホン、次々と繰り出されてきた商品は最近では小粒化している。
それでも、他方では、ほしいものがないというのが本当のことなのか、首をひねるような事例がないわけではない。最近では高額な薬が次々と開発されており、例えば、オプジーボという肺がんの特効薬の場合、これは一剤でひとりあたり年間3500万円、日本全体で1兆7500億円もの薬剤費がかかるとの試算もあり、国家財政を傾けてしまうとの懸念の声が上がっている。再生医療を活用した臓器の置き換えが実用化されれば、費用はけた違いにかかることになりそうだ。人工知能(AI)を活用した家事ロボットや恋人ロボットが実装化されれば、飛びつきたいという者がいるのではないか。むしろ、ほしいものはあるが、いまだ開発途上であるか、あるいは単に我々が充分に豊かではないから、需要が顕在化しないだけともいえる。
自由で平等な社会と不可分な「相対的必要」
そもそも、他人と比べることに主旨がある「相対的必要」は、定義において限りがないものである。同じカロリーを摂取するにしても、コンビニの弁当で済ますのと、高級フランス料理店に通うのとでは、明らかに異なった意味がある。デートで思い切って口説こうとするなら、街の片隅にしゃがみ込んで弁当をむさぼるよりも、フレンチの方が(いつもとは限らないが)よいだろう。むしろ、かつては社会階層が固定的であったから、「相対的必要」が頭から抑え込まれていたことを考える必要があるだろう。自由で平等な社会は「相対的必要」を目覚めさせる。「相対的必要」を忘れるためには、それこそ「文化大革命」が必要となるかもしれない。スキデルスキー父子は、「よい暮らしを形成する七つの要素」として、健康、安定、尊敬、人格または自己の確立、自然との調和、友情、余暇の七つを挙げている。これらの当たり前にもみえる七つの要素に辿りつくことは、容易なようにもみえるが、実は社会の根本的な転換を要するのではないか。
各人は、今日はこれをしたかと思うと、夕方は家畜の番そして夕食後には批評をするといった風にまったく気のおもむくままに振舞い、そのくせ猟師であることも漁夫であることも、また羊飼いであることもついぞその必要がないのである...?
もしかしたら、たしかに至福への道は我々の前に開けているのかもしれない。ただ、我々がその変化を望むのか、そして、各人が望んだとしても、社会や経済の仕組み、とりわけ利潤の追求を旨とする資本主義社会が、それを許容するのか、評者は迷う。あるいは、福祉国家構想の要点は、この変化を平和裏に漸進的になしとげることにあったことに思いを寄せるのであれば、欧州や日本の福祉国家の行方を考えることが、この問題を解くヒントを与えてくれるのかもしれない。ここに評者は、ケインズやスキデルスキー父子が論じている問題が、19世紀から繰り返されてきた、資本主義にまつわるいにしえからの論争の新たなステージを拓くものであることを理解するのである。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion