自由で平等な社会と不可分な「相対的必要」
そもそも、他人と比べることに主旨がある「相対的必要」は、定義において限りがないものである。同じカロリーを摂取するにしても、コンビニの弁当で済ますのと、高級フランス料理店に通うのとでは、明らかに異なった意味がある。デートで思い切って口説こうとするなら、街の片隅にしゃがみ込んで弁当をむさぼるよりも、フレンチの方が(いつもとは限らないが)よいだろう。むしろ、かつては社会階層が固定的であったから、「相対的必要」が頭から抑え込まれていたことを考える必要があるだろう。自由で平等な社会は「相対的必要」を目覚めさせる。「相対的必要」を忘れるためには、それこそ「文化大革命」が必要となるかもしれない。スキデルスキー父子は、「よい暮らしを形成する七つの要素」として、健康、安定、尊敬、人格または自己の確立、自然との調和、友情、余暇の七つを挙げている。これらの当たり前にもみえる七つの要素に辿りつくことは、容易なようにもみえるが、実は社会の根本的な転換を要するのではないか。
各人は、今日はこれをしたかと思うと、夕方は家畜の番そして夕食後には批評をするといった風にまったく気のおもむくままに振舞い、そのくせ猟師であることも漁夫であることも、また羊飼いであることもついぞその必要がないのである...?
もしかしたら、たしかに至福への道は我々の前に開けているのかもしれない。ただ、我々がその変化を望むのか、そして、各人が望んだとしても、社会や経済の仕組み、とりわけ利潤の追求を旨とする資本主義社会が、それを許容するのか、評者は迷う。あるいは、福祉国家構想の要点は、この変化を平和裏に漸進的になしとげることにあったことに思いを寄せるのであれば、欧州や日本の福祉国家の行方を考えることが、この問題を解くヒントを与えてくれるのかもしれない。ここに評者は、ケインズやスキデルスキー父子が論じている問題が、19世紀から繰り返されてきた、資本主義にまつわるいにしえからの論争の新たなステージを拓くものであることを理解するのである。
経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion