スキデルスキー父子による"100年後"の予言検証
スキデルスキー父子による『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』(原著2012年)は、このケインズの予言の検証を手始めに、近現代の社会のあり方が歴史的にみれば奇異なものであり、それを変え、古きよき伝統へ回帰していく必要を説いていく。ケインズの予言の前提条件であった、人口の制御と大戦争のないことは、必ずしも十分に満たされたわけではない。人類全体でみれば人口の制御はいまだ成し遂げられているとはいえないし、ケインズの小論から間もなく第二次世界大戦が勃発している。ただし、ケインズの母国英国を含む先進国ではおおむね人口は制御されるようになったし、第二次大戦以降、世界規模の戦争は起こっていない。そして、生産力の向上においては、ケインズの想定していた以上の進展があった。英国の一人当たり所得は、1930年からの70年間で四倍に増え、ケインズの予想(四~八倍)の下限にはやくも達した。
こうした比較的恵まれた状況であるにも関わらず、ケインズの予言から百年が迫ろうとしているのに、ケインズの想定したほどには労働時間は短くなっていない。生産性の伸びに従って労働時間が短くなるという予測は、追加的な所得がもたらす満足は次第に減るという想定に基づく。ケインズは「われわれが生きている間に、農業、鉱業、製造業の作業はどれも、これまでやってきた労働の四分の一でやってのけられようになる」とした。だが、1930年に週50時間働いていたのに対し、現在は40時間ほどまでしか減っていない。たしかに、富の分配に偏りがあることから、低所得層は必要に迫られて労働しているに違いない。ただ、中所得以上の者が働かないようになっているかといえば、そうなっていないのである。技術進歩の恩恵で、絶対水準では、ケインズの時代の高所得の有閑階級以上の生活を享受しているにも関わらず。
なぜ長時間労働がなくならないのか。ケインズの枠組みで解釈すれば、「絶対的必要」ではなく「相対的必要」によって人が突き動かされていることになる。たしかに、「おれはあいつよりもいいものを食っている」という必要には限りがない。だからこそ、ケインズが予言して百年が近づこうというのに、我々から至福はいつまでも遠いままである。企業は広告費をつぎ込んで、欲望をかき立て、さして必要とは思えないものを売ろうと血眼になっている。
もっともケインズは、ただちに「絶対的必要」に基づく生活を送るよう勧告していたわけではない。むしろ、当面の処方箋は逆である。あと百年(1930年から数えて)ほどは貪欲が人間の神でありつづける、とケインズは認めている。貪欲だけが商品の売り上げを促し、その開発を推進し、全体的な富の水準を引き上げることができる。そして、このことだけが、経済的必要のトンネルから太陽のもとへと我々人間を導くことができる、というのである。「こうしたものすべての時はまだ満ちていない。少なくともあと100年にわたり、私たちは自分たちに対して、きれいはきたなくきたないはきれいだというふりをしなければならない」。