梅雨も西のほうから明けてきて、いよいよ本格的な夏がやってきました。クラシック音楽の本場、ヨーロッパは日本に比べたら緯度が高く、夏でも日本より涼しいところが多いのですが、今日は、暑い南米の国アルゼンチンを代表する作曲家に登場してもらいましょう。
アルベルト・ヒナステラのバレエ音楽「エスタンシア」をとりあげます。
ラテンアメリカでもっともヨーロッパ的な都市
スペインの植民地だったアルゼンチンは、19世紀になると独立して建国の機運が高まりますが、ポルトガルの影響が強い隣国ブラジルとの争い、またアルゼンチン内での首都となる都市の主導権争いなどもあり、長い混乱の時期を迎えます。1880年になり、ようやく首都が現在のブエノスアイレスに決まると、政治が安定し、経済も発展し始めます。もともと、建国の時から西欧化を目指していたアルゼンチンは、ヨーロッパ系移民の多い国でしたが、19世紀終わりごろから、さらに爆発的にスペイン・イタリアなど南欧からの移民が増え、欧州で最初の大戦が起こった1914年ごろには国民の約3割が外国からやって来た人たち、という移民大国になりました。文化も「ヨーロッパ直輸入」の香りが漂い、街並みも欧州的で、移民の白人が多く暮らし、ブエノスアイレスはラテンアメリカでもっともヨーロッパ的な都市と言われるようになりました。
そんな「ヨーロッパ的な」首都ブエノスアイレスに、1916年アルベルト・ヒナステラはイタリア系移民の子供として生まれました。2度の世界大戦には中立だったアルゼンチンは、順調に経済発展をするかに見えましたが、農畜産物の貿易に頼るモノカルチャー的経済だったために世界恐慌の影響を受け、政治が混乱し始めます。そんな大戦間期にブエノスアイレスの音楽院を卒業したヒナステラは、第二大戦後すぐの1945年から2年ほどアメリカでコープランドなどに学びます。アルゼンチンに戻って作曲家協会などを設立し、その後、また国を後にしてアメリカ、ヨーロッパと渡り歩き最終的にスイスのジュネーヴで亡くなっています。
いわば「逆移民」の形でクラシック音楽の本場、ヨーロッパでも暮らしたヒナステラですが、彼の音楽には、常に、様々な形で「祖国アルゼンチン」が表現されています。