機械技術、生命科学の進歩で際立つ「人間性」の脆弱さ

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ドリームワールド

   近年の人工知能(AI)ブームにみられるように、機械技術の進歩は、着実に意識を持った機械への道を歩んでいるようにみえる。生命科学においても、ゲノム編集の実用化に踏み込みはじめているし、抗鬱剤の乱用が問題視されてから久しい。技術開発とその応用は、政府の成長戦略の核をなしている。政治においても、「『人口減少下でも経済成長できる』というビジョンを国民と共有していく必要がある。我が国が世界に先駆けて、人工知能などを活用したイノベーション創出・商品化・サービス化を進めるべきである」(自由民主党「2020年以降の経済財政構想小委員会」=橘慶一郎委員長、小泉進次郎事務局長)という認識が公にされている。たとえ、技術開発の中止を言い出したところで、「機械を使用する者が、もっとも栄えるように思われる」のであり、我が国が開発を止めたところで、米国や中国で開発が進むであろうから、その場合、国家間競争で我が国が後れを取るだけのことにおわる。

「未来世界の倫理」

「未来世界の倫理」

   それでも、評者が『地球へ...』などを取り上げるのは、技術進歩のなかで、我々が当たり前に思ってきた「人間性」が実は脆弱なものであり、この「人間性」をどう扱うか真剣に考察する時期に差し掛かっていると感じているからである。ジョナサン・グラバー『未来世界の倫理』(1984年)は、「ドリームワールド」という枠組みを用いた思考実験をおこなっている。脳と人体の感覚器官を機械につないで刺激のやりとりをするこのシステム(映画『マトリックス』を想起してもよい)は、あたかも現実の世界で生きているかのような幻の体験を人間に与える。幻の家族、幻の町、幻の政治、幻の科学研究のなかで、人間は最大の幸福を経験することができる。この機械につながれることを拒む理由はあるのだろうか。

   グラバーによると、「ドリームワールド」の与える体験では満足させられない活動として残るのは、人間同士の人格的交流と科学研究のみであるという。ドリームワールド内に幻の子どもと現実の子ども、ふたりの子どもがいるとした場合、現実の子どもの死の方が幻の子どもの死よりも悲劇であるに違いない。幻の科学実験で幻の新素粒子を発見したとしても、それは真の科学研究とは異なるものである。たとえ当の本人に現実と幻の区別がついていなくても、現実の人格的交流と科学研究の方が価値が高いというのである。人間が快楽を感ずるだけの動物的存在を超えるものだとすれば、その「人間性」の根拠がここにある。

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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