警鐘
技術に対する「人間性」の弱さというテーマは、映画でよく取り上げられるテーマであるが、はやくから文学が開拓してきた問題である。ハクスリー『すばらしい新世界』(1932年)では、人工子宮の登場により家族は消滅しており、「ソーマ」という副作用のない麻薬が人間を苦悩から解放している。『新世界』では、野蛮人(普通の旧世界人)が登場し、新世界の守護者ムスタファ・モンドに論争を挑んでいる。最終的に「それじゃ全く、君は不幸になる権利を要求しているわけだ」とムスタファ・モンドから詰め寄られると、野蛮人は「それならそれで結構ですよ」と認めるほかなかった。結末で野蛮人は縊死してしまう。ソーマにより約束された幸福に対し、本当の幸福は別のところにあると主張することは難しい。
『新世界』は生命科学の延長で未来社会を描いているが、もう一時代前のバトラー『エレホン』(1872年)が扱うのは、意識を持つ機械への警鐘である。エレホンという架空の国で、機械がやがて意識を持ち人間を隷属させる危険性を嗅ぎ取った人々は、一切の機械を廃絶してしまう。機械の禁止は徹底したもので、外の世界から迷い込んできた主人公の懐中時計までもが没収の憂き目にあう。機械の廃絶は、機械推進派との戦争によって達成される。皮肉なのは、機械反対派も戦争には機械を使わざるをえなかったことだ。機械反対派は勝利の暁に手元の機械を廃棄している。機械の力で勝った人間がおとなしく機械を手放すのか、実際問題疑わしいと言わざるをえない。一旦はじまった機械の進化を押しとどめるのが如何に困難か、同書からの次の引用が雄弁に語っている。「成程、低級な唯物主義的観点からは、それを使用することが利潤を生む可能性がある時はいつでも機械を使用する者が、もっとも栄えるように思われるだろう。併しそれが機械の策略なのである」。