桐生の「気概を受け継ぐ」人々
信濃毎日を退職後、桐生は個人誌「他山の石」を発刊、洋書要約や論説によって糧を得る。だが相次ぐ検閲と発禁処分で収入は先細っていく。言論封殺が経済的な死をも予感させる中、桐生は病没する。
その末期を著す本書終盤の筆は冴えわたり、当局の卑劣さを超越した境地を示し、不思議な清涼感さえ漂わせる。
巨星・桐生にあやかろうというのか、ここ数年、新聞や雑誌で桐生の名を見かける。だが、海外情勢もつぶさに調べ真実を抉った桐生の名を挙げながら、オスプレイが危険だなどという誤謬を平然と述べる論旨は、納得しがたい。また現代ジャーナリズムが闘う相手を戦前の軍部になぞらえるとすれば、誇張を通り越して滑稽だ。紙面に桐生の「気概を受け継ぐ」と書くのをみると、平成の世に圧力と呼べるほどのものがあるか、と問いたくなる。尤も、論説委員の自己陶酔であれば心情は理解できなくもない。きっと純粋な方なのだろう。
言論の自由は不断の営みで動態的に守られるべきものだ。しかし、およそ脅威がありもしないときに声高にそれを叫んでも、オオカミ少年の如き悪弊しか生じまい。
そう思えば、官僚も「国益のため」と叫びがちだ。以て他山の石としよう。「自説は正しい」と信じたい心裡を抑制することは、マスコミ、官界問わず柔軟な思考を確保するために不可欠だろう。
だとすれば、事実誤認に首を傾げ、卑俗な表現に辟易しながらも、今後は週刊誌の「大胆な政策」なるものも、謙虚に拝読せねばなるまい。時代は週刊誌を愛でているらしい。第一権力たるマスメディアが、その方角を誤らぬよう祈るのみである。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)