『小倉昌男 祈りと経営――ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』(森健著、小学館)
電話一本かければ、自宅まで集荷に来るし、全国どこでも荷物が届く。今ではアタリマエとなった、この「宅急便」という仕組みを「発明」したのが小倉昌男だ。彼は、その実現に向けて、霞が関と闘い、全国にネットワークを広げた。引退後は、障害福祉にほとんどの私財を捧げ、障害者が働くことを徹底的に支えた。伝説の経営者として、今なおその経営書は、読み続けられている。
本書は、そんな「論理と正義の人」というイメージとは異なる「人間 小倉昌男」の姿を、1年半に及ぶ丹念な取材を基に描いたノンフィクション。ひとりの弱い人間として誠実に生きた小倉の生き方に読む者の心が揺さぶられる。小学館ノンフィクション大賞を受賞した「傑作」である。
伝説の経営者の3つの「謎」―まだ語られていない「何か」がある―
希代の名経営者、小倉昌男が亡くなって10年になるが、未だにその名声は多くの日本人に記憶され続けている。
「宅急便の父」、規制緩和のために霞が関と闘った「闘士」、そして引退後は、障害福祉に私財を捧げ、働く障害者に月給10 万円という夢を実現した「篤志家」。小倉昌男といえば、非の打ちどころのない、素晴らしい人物との印象がある。
しかし、著者は、小倉をめぐる数々の書籍を読む中で、「もやもや」する部分が残ったという。どうしてもわからないことが3つあったそうだ。
①なぜ、障害福祉の世界に飛び込んだのか? 引退後、小倉は、ほとんどの私財、具体的には、小倉自身が保有していたヤマト運輸の株のすべて(46億円相当)を投じて、ヤマト福祉財団を設立し、障害者の就労支援に力を尽くした。 小倉自身は、自著の中で、こうした福祉への取組みについて、こう語っている。 「私がなぜ福祉の財団をつくろうと思ったのかというと、実ははっきりした動機はありませんでした。ただ、ハンディキャップのある人たちになんとか手を差し伸べたい、そんな個人的な気持ちからスタートしたのです」(『福祉を変える経営』) 著者曰く、経営者時代に特段、福祉活動について関心があったようには見えなかった小倉が、46億円もの私財を投じて福祉の世界に入ったのに、〈はっきりした動機〉がないというのは奇異に思えたという。
②なぜ、外部の小倉評と小倉自身の自己評価の間に大きなギャップがあるのか? 小倉については、「名経営者」、さらに、官庁の規制と闘い、行政訴訟も辞さなかった「闘士」というイメージがあるが、自著には、そうした大きな声の言葉はまったく出てこない。むしろ、自らについては、「気が弱い」という表現が幾度となく出てくる。このギャップの大きさに違和感を覚えたという。 「どうも私は世の人々から、気が強くてケンカっ早い人間だと思われているようだ。おそらく宅急便の事業などをめぐって役人と徹底的に闘ってきたことで、そういうイメージが広まってしまったのだろう。実際は、自分でも情けなくなるぐらい気の弱い人間だ。ケンカっ早いどころか、むしろ、何か言いたいことがあっても遠慮して引いてしまうことのほうが多い」(『「なんでだろう」から仕事は始まる!』)
③なぜ、死期を目前にして渡米し、娘夫婦の自宅で亡くなったのか? 小倉は、すい臓がんが進行し、余命数か月という段階となって、長女家族が住む米国ロサンゼルスに移り、その地で亡くなった。80歳という高齢で、しかも死を自覚していながら、なぜアメリカに渡ったのか。有効な治療法や医師を求めての渡米ではないという。一体、なぜ、そんな無謀な行動をとったのか。