先週は、シューベルトの交響曲「悲劇的」をとりあげましたが、彼が活躍した音楽の都、ウィーンの世紀末に、一人の指揮者が登場します。グスタフ・マーラーです。現在では交響曲の作曲家として名高い彼の交響曲作品にも、「悲劇的」と呼ばれるものがあります。今日は、この曲、マーラー作曲『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』を取り上げましょう。
情熱ほとばしる音楽的実力...若干37歳でウィーンの歌劇場芸術監督に
ウィーン郊外の出身だったシューベルトと違って、マーラーは帝国内ですが、ボヘミアのカリシュトという村の出身でした。現在はチェコ国内です。若いころから音楽の才能を発揮し、帝都ウィーンの音楽学校で学び、頭角を現します。学校を卒業後、20歳代で、カッセル、プラハ、ライプツィヒといったドイツ語圏のオペラ劇場の指揮者となり経験を積みます。30になるとハンブルク、そしてついには、ウィーンの歌劇場の指揮者に就任する...とこの経歴を見ると、輝かしい出世物語に見えます。それだけ、彼の音楽を作り上げてゆく情熱はすさまじく、演奏(指揮)であろうと、作曲であろうと、その情熱のほとばしりは変わらなかったのです。
歌劇場の指揮者として、数々の伝説的公演を成功させたマーラーですが、その陰には苦労もありました。彼はユダヤ系だったため、ウィーンの指揮者になるにあたってカトリックに改宗していますし、ドイツ語圏の出身ではあってもボヘミア人だったため、「ウィーン(オーストリア)ではボヘミア出身といわれ、ドイツではオーストリア人と言われる」と彼が回想しているように、微妙な違いでいわれなき差別を受けたこともあったようです。しかし、どちらにせよ、情熱ほとばしるその音楽的実力で、ウィーンの歌劇場の芸術監督にまで若干37歳で上り詰めるのです。彼の練習は厳しいことで有名で、休憩もほんの短いものしかとらなかったそうで、ある日の練習で、珍しく指揮者マーラーが長い休憩をとってしばらく戻らなかったので、楽団員がその理由を聞いたところ、「ああ、ちょっと結婚式を挙げてきたんだ」と答えたというエピソードが残されています。
「指揮者の余技」の交響曲も...独自のこだわり
彼は、41歳の時、画家の娘にして幼いころから芸術の才能を発揮していた美貌の女性、アルマ・シントラーと結婚します。ウィーンで着々と地位を築き、私生活も人もうらやむような幸福につつまれている...そんなマーラー44歳の時に、交響曲第6番「悲劇的」は書かれています。
マーラーは、あまりにも指揮者としての活動が華々しく、かつ、多忙であったため、周囲から彼の交響曲は「指揮者の余技」とみられていました。現実的に、夏の休暇期間ぐらいしか、集中的に作曲に取り掛かれなかったのも事実です。
しかし、彼は若いころから、管弦楽伴奏による歌曲や交響曲を精力的に作り続けていました。声楽にとくにこだわりがあったため、交響曲 第1番は同時期に作曲された歌曲集と旋律などが共有され関連が深く、第2番から4番までは、すべて独唱や合唱といった声楽入りの交響曲となっています。第5番から、管弦楽だけの交響曲にもどりますが、第6番「悲劇的」は特に、古典的なフォルムに回帰しようとした節が見られます。
「古典的」なフォルム...「マーラー節」も人気薄く
というのも、それまでの彼の交響曲は、「時間のある時に書き足してゆく」という作曲法のゆえか、はたまた、声楽の歌曲と同じような物語を背景に作られることが多いせいか、交響詩に近い自由な形式で書かれていて、(現実に 第1番はもとは交響詩として作曲されていました)冗長だという批判を受けていたのです。
批判は演奏でも作曲においても気にしないマーラーですが、第6番は、古典的交響曲の形式に寄せて、書いた様子があります。それでも全体では80分かかる大作ですし、カウベルやハンマーなど、独創的な打楽器が出てくるところが「マーラー節(ぶし)」、なのではありますが...。その「古典的」なフォルムのせいか、マーラーの交響曲の中では、比較的人気がありません。
そして、この曲はタイトルと正反対に、彼のキャリアも充実し、私生活も幸せな絶頂期に書かれているのですが、曲を完成した後、彼には、さまざまな不幸が降りかかるのです。マーラー自身が「この曲は、聴くものに謎を投げかけるだろう」と言ったそうなのですが、後世のわれわれから見ると、この交響曲は不気味な予言...とも解釈できてしまうのです。
本田聖嗣