18世紀も終わりが近づいた1797年、現在のオーストリア、当時のハプスブルク帝国の首都ウィーンに一人の作曲家が生まれます。彼の名前はフランツ・シューベルト。古典派の時代の最後期に登場した彼は、素晴らしいメロディーの歌曲を数多く作り、ロマン派の扉を開いた作曲家です。「歌曲王」と呼ばれるシューベルトですが、今日は彼の交響曲第4番、「悲劇的」を取り上げましょう。
「天才」が音楽の道開く
シューベルトの実家は貧しく、しかも彼は四男であったので、音楽の道に進む、という可能性は本来なら大変低かったのですが、幼いころから音楽に対する天才的な才能を発揮したため、教会の聖歌隊やウィーンの寄宿制神学校に奨学金を得て入学することができたため、当時一流の音楽家から教育を得ることが出来ました。モーツアルトもそうですが、若いころからの教育は、音楽にとって重要なようです。
寄宿制学校を卒業した後、彼は教職に就きますが、音楽と関係のない科目を教えるのは気が進まなかったらしく、映画などの脚色では、授業中に歌を作曲してしまい、教えている生徒たちと歌ってしまう...という場面さえ見られます。さすがにそこまで常識外のことはしなかったはずですが、彼が天性のメロディーメーカーで、素晴らしいたくさんの歌曲を残したという事実と、教員の仕事は全く気が進まず、辞めたくて仕方がなかった、というのは事実です。
理想の作曲家は同じウィーンで活躍したベートーヴェン
歌の分野で素晴らしい実績を残したシューベルトはそのことによって「歌曲王」というニックネームで呼ばれたわけですが、彼にとっての理想の作曲家は、同じウィーンで活躍したベートーヴェンでした。ベートーヴェンは歌曲やオペラなどの声楽作品はあまり得意ではなく、管弦楽や室内楽、ピアノ曲といった器楽曲で数多くの名作を残しているのです。そしてその中心には「交響曲」がありました。
おそらくその影響で、シューベルトも若いときから、交響曲を作ることを目指します。最初の交響曲第1番は、わずか16歳の時、まだ寄宿学校に在籍しているときに作られました。18歳になり、曲がりなりにも社会人となり、音楽のレッスンを当時ウィーンで名高かったサリエリから受けながら、彼はたくさんの作品を作曲しますが、その中に交響曲第2番、第3番もあります。
そして、法律家の友人の勧めによって、気の進まない仕事である教師生活をきっぱりやめ、作曲だけに専念する体制が整った19歳の時に、彼は、交響曲第4番ハ短調「悲劇的」を作曲するのです。彼の「未完成」という名の交響曲は、後世の人間が勝手につけた名前ですが、「悲劇的」は、彼自身の命名によるものです。ここにも、彼が理想の作曲家と仰ぐ、ベートーヴェンの影響が色濃く、タイトルは、ピアノソナタ「悲愴」などからインスピレーションを得たのではと言われています。
「悲愴」「運命」と同じハ短調を選択
交響曲の調性を記すとき、それは、第1楽章の冒頭の調を指すことになっています。クラシック曲は、転調といって、1曲の中でいろいろな調に変化することがあたりまえですから、「何調」という表記は、最初の、ごく一部分の調を表すのに過ぎないわけですが、それでも、作曲家にとっては、その選択は重大な意味を持ちます。
シューベルトは、交響曲第4番において、初めて「ハ短調」という「短調」を選択しました。明るい感じを与える長調、メジャーに対し、短調、マイナーは暗い感じを与えます。そして、同時に強い力を感じさせます。
ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」もハ短調で書かれています。そして、何より、彼の交響曲の名作、第5番「運命」(このタイトルは彼の命名によるものではありませんが)もハ短調で書かれているのです。
そして、ベートーヴェンにとっても、交響曲第5番は、初めての「短調」で始まる交響曲でした。もちろん、それらのことを熟知していたベートーヴェンの熱烈なファン、シューベルトが、初めて「ハ短調」の交響曲をつくろうと思い立ったのには、彼の覚悟が感じられます。彼が名付けた「悲劇的」というタイトルの中には、「運命的」な要素が入っているといってもいいのではないでしょうか?
本田聖嗣