理想の作曲家は同じウィーンで活躍したベートーヴェン
歌の分野で素晴らしい実績を残したシューベルトはそのことによって「歌曲王」というニックネームで呼ばれたわけですが、彼にとっての理想の作曲家は、同じウィーンで活躍したベートーヴェンでした。ベートーヴェンは歌曲やオペラなどの声楽作品はあまり得意ではなく、管弦楽や室内楽、ピアノ曲といった器楽曲で数多くの名作を残しているのです。そしてその中心には「交響曲」がありました。
おそらくその影響で、シューベルトも若いときから、交響曲を作ることを目指します。最初の交響曲第1番は、わずか16歳の時、まだ寄宿学校に在籍しているときに作られました。18歳になり、曲がりなりにも社会人となり、音楽のレッスンを当時ウィーンで名高かったサリエリから受けながら、彼はたくさんの作品を作曲しますが、その中に交響曲第2番、第3番もあります。
そして、法律家の友人の勧めによって、気の進まない仕事である教師生活をきっぱりやめ、作曲だけに専念する体制が整った19歳の時に、彼は、交響曲第4番ハ短調「悲劇的」を作曲するのです。彼の「未完成」という名の交響曲は、後世の人間が勝手につけた名前ですが、「悲劇的」は、彼自身の命名によるものです。ここにも、彼が理想の作曲家と仰ぐ、ベートーヴェンの影響が色濃く、タイトルは、ピアノソナタ「悲愴」などからインスピレーションを得たのではと言われています。