今日取り上げる曲は、先週に続いて鳥の「ひばり」を題名にした曲です。ロシアのグリンカが作曲した歌曲を、バラキレフがピアノ独奏曲に華麗にアレンジした作品です。
欧州各国の音楽の発展はイタリアとの距離しだい...
ルネッサンスを起こしたイタリアに起源をもつクラシック音楽は、イタリアに近い国々から盛んになっていきました。音楽の都ウィーンがイタリアの隣国であるオーストリアにあるのは偶然ではありません。バロックの時代までは、教会か宮廷がパトロンとなり製作された音楽がほとんどでしたが、古典派の時代から、それまでの貴族階級に代わって力をつけてきた市民階級が音楽の支持層となったため、その後、革命を起こしたフランスや、商業の盛んなドイツといった北の国でも発展することになります。
音楽の発達にそのような経路があったことを考えると、イタリアから遠い国は発展が遅れがちになります。イギリスは、世界的作曲家の数がイタリアやドイツやフランスに比べて少なく思えますが、やはり、イタリアからの距離が影響しているのかもしれません。しかし、この国は商業・金融が盛んで、音楽を聴く市民階級は豊富でしたから、多くの外国の作曲家や演奏家が足を運び、音楽界全体としては盛んな国になりました。
英国からきた伊ピアノメーカーの奏者から技術を学び...
同じようにイタリアから遠い国、ヨーロッパの最東端の国がロシアです。19世紀初頭、ロマン派の時代が始まろうとしているころ、ロシア貴族の家に生まれたミハイル・グリンカは、イギリスからやってきたイタリア人が経営するピアノメーカーの売り込みに帯同していたピアノ奏者、ジョン・フィールドから教えを受け、ヨーロッパ中心のピアノ技術を学び、その後、イタリアに留学してオペラの作曲なども学びます。その過程で、彼の中に芽生えたのは、「輸入品ではない、自国の音楽を作ろう」という気概でした。彼のオペラ「ルスランとリュドミラ」などは、初演時こそ当時のロシアの演奏技術のまずさからパッとした評判を得られなかったものの、現在では、ロシア最初の国民主義的オペラとされています。
そんなグリンカが残した作品に「サンクトペテルブルクへの別れ」という12曲からなる歌曲集があります。音楽の勉強のためにベルリンに滞在中グリンカは亡くなりましたから、彼の人生を象徴するような題名ですが、その10曲目が、「ひばり」です。ネストル・クルコニクという詩人の詩に曲をつけたものですが、ロシアの哀愁を感じさせる短調の旋律が印象的な歌曲です。
「ロシア国民楽派」のうねり、グリンカから「ロシア5人組」へ
グリンカが火をつけた「ロシア国民楽派」の火は、「ロシア5人組」に受け継がれます。ボロディン、ムソルグスキー、バラキレフ、キュイ、リムスキー=コルサコフ、彼らの活躍がロシア音楽をクラシック音楽にとって欠かせないものにしてゆきます。あまりロシア的なものにこだわらなかった同時代のチャイコフスキーと共に、彼らの活躍のおかげでロシア音楽の最初の黄金時代となりました。
5人組は「グリンカの精神を受け継ぐ」こと標榜していました。メンバーの一人、バラキレフは、グリンカの残した哀愁のある歌曲「ひばり」をピアノの独奏曲に編曲することを思い立ちます。それは単なる「音の移し替え」ではなく、最初はオリジナルの歌曲に忠実ですが、途中からヴィルトオーゾなテクニックが必要とされる、ダイナミックなパッセージがあらわれ、最後は、また悲しげに弱音で終わる・・という、ピアノソロに適した思い切った追加アレンジが行われています。
ロシアの哀愁と、ロシア・ピアニズムと言われる華麗なる技巧を両方披露することが出来るこの曲は、現代のピアニストのアンコールレパートリーとして、人気の曲になっています。
グリンカが曲をつけた「ひばり」のもともとの詩は、誰かの歌う「歌」が主人公で、ひばりの鳴き声は単なるアクセントなのですが、バラキレフ編曲のピアノ曲は、あたかも旋律が、ロシアの遅い春に飛び交うひばりの啼き声に聴こえ、哀愁がしみじみと伝わってきます。
グリンカがきっかけを作り、5人組が継承した、「ロシア音楽の春」を、バラキレフとの合作ともいうべきこの曲、「ひばり」は告げているのかもしれません。
本田聖嗣